家の中に居た私は光った瞬間ガラス越しではあるけれど、まともに光を浴びた。窓ガラスは粉々にわれ、畳にも突き刺さった。私にも腕、足などにも突き刺さったけれど、顔には怪我は無かった。終戦になり、学校も校舎は傷んだけれど講堂と工業室だけが何とか残っていた。生徒も建物疎開に行かなかったクラスと先生方が残っていた。残された先生、生徒たちで、帰らぬ人となられた方々の慰霊祭を工業室で執り行われた。亡くなられた先生、生徒の方々のご家族が参列され涙の告別式。答辞を涙ながら読んで自分の席に帰ろうとした時、ある、お母さんが私の前に来られ、家の娘は焼け死んだのに貴女は生きているの、といわれた。私は言葉も無くただ泣くだけで、頭をさげていた。其の時の辛さは八〇歳を過ぎた今日でも、忘れる事はできない。
甲状腺ガン。左側は早く手術が出来たのですが。右側は如何する事も出来ないと、広島大学病院の先生から宣告を受けました。「大腸ガン、手術」一〇年が過ぎました。被爆検診は必ず受けに行っております。
「右側の甲状腺」頭から離れる事はありません。薬も「朝、夜」忘れないように飲んでいます。
|