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石本 邦雄(いしもと くにお) 
性別 男性  被爆時年齢 10歳 
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年 2006年 
被爆場所  
被爆時職業 児童 
被爆時所属 国民学校 5年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

三年間の石本邦雄のブログです。今回当時一緒に過ごした姉が身罷りましたので、思い出のためにもう一度採録いたします。

二〇〇六年八月七日(月)
被爆

原爆投下の日、八月六日が近くなると何故か毎年体調が低下します。心因性のものと思いますが頭痛と倦怠感を感じます。一〇歳のとき当に広島市内に入る直前に被爆しました。怪我はありませんでしたが翌日の午後に爆心地あたりを通り抜けて千田町の実家に辿り着きました。父は元気でいましたが、母と兄が帰ってきていません。隣りもそのまた、隣りもどこも多くの肉親家族を失っており、自分だけ落ち込んでいられない環境でした。今考えると急性放射能障害だったのかもしれませんが、近所のお医者さんに見てもらっても殆どなんにも判らず、苦しいのを我慢して市内のあちこちに肉親探しに歩き回る毎日でした。当時一中の一年生だった兄は建物疎開の作業に狩り出されて爆心地から一五〇〇メートルのあたりで被爆したはずでした。どこかへ収容されるかもしれないと、焼け残っている学校や病院、山かげなどの収容所を巡っていました。母は疎開先から帰ってくる私を紙屋町あたりまで迎えに出ていた可能性もありました。

二〇〇六年八月八日(火)
地獄絵

原爆当時の地獄絵を被爆体験の老人たちが稚拙な筆で書かれていますが、まさにそのままの情景でした。焼けた電車の中に一杯の焼けた死体、プールの中に重なるように浮んでいる沢山の死体、一中の校舎と外運動場の間の道に、隣組の人たちが男は鉄兜に作業着にゲートル、婦人はもんぺ姿に防空頭巾・・中には子供を背負った人も・・一列に並んで点呼の最中だったかもしれません・・爆風で厚いレンガの塀がその上に倒れて二〇人位がその下敷になってそのままの状態で焼かれていました。その運動場は食料不足を補う為に一面に芋畑で畝が残っていました。そこにも夥しい遺体が転がっていました。少し薄暗くなった畑の中でやっと娘の遺体を見つけた母親が自分の唾で手拭をぬらし真っ黒く焼け焦げた顔を拭いているところを見ました。上着の胸にはみんな所属と姓名の小さな布切れが付けられており、それの手懸り確認の為に遺体を引き起こしたり、傾けたりしながらの捜索でした。

二〇〇六年八月九日(水)
三日目のできごと

三日目 御幸橋の袂で横たわっていた火傷のひどい叔父を見つけました、父と二人で支えながら焼け残った自宅へ連れて帰りました。叔母さんは?と聞いても泣いて声になりません。ややして話し出したことを聞いて胸がつぶれる思いをいたしました。外出先で爆風で吹き飛ばされてやっと気付いた時はもう回りは火の手が上がっていたそうです。大学前の家にやっとの思いで辿り着いたとき、家は全壊・・そして家の倒れた大きな柱の下に挟まれた奥さんを見つけたそうです、一人ではびくともしない柱・・道まで戻って助けを呼んだそうですが誰もそれどころではない状況だったようです。奥さんの意識ははっきりとしていて、暫く寄り添っていたそうですがやがて火の手が迫ってきたそうです。貴方だけでも逃げてと言う言葉に手を合わせながらその場を離れたとか・・。私をとても可愛がってくれた叔母でした。父と二人でスコップを持って夕方焼け野原のその家の台所あたりで白くなったお骨を拾って帰りました。

二〇〇六年八月一〇日(木)
四日目の出来事

四日目に従兄弟から宇品港に掲示してある収容者名簿に姓が石本、名前が英?・・二歳上の兄の英彦ではという不確かな情報がもたらされました。胸に着けた布の名札などは焼けたり千切れたり読めないものも沢山有りましたので、もしやと言う思いで夕刻でしたが小さな艀に乗って父と二人で坂町の半島の先の暁部隊の兵舎に行きました。兵舎の廊下といはず軒下まで息も絶え絶えの収容者が寝かされており、治療はとても間に合わないようでした。兄の名前を伝えて待っていますと、介護の兵隊さんも未だ記憶に残っていたらしく私の頭を撫でながら涙を浮かべて兄の最後を語ってくれました。火傷がひどく収容されたその日に事切れたようでした。小さな箱にその名札が入っていて、遺体はどこに埋葬されたか判らないままでした。小さな箱を持って帰りは艀で真っ暗な広島に向かっているとき、船べりで砕ける波に夜光虫の光を印象強くおぼえております。歩いて千田町の家にたどり着いたとき未だ母は帰ってきていませんでした。生き残ったもの三人、ローソクの火を中に囲んで・・父の落胆した顔を忘れる事ができません。

二〇〇六年八月一一日(金)
私の終戦・・

原爆の光線を全身に浴びた人の顔かたちは、正視出来ないほどでした。私の母も生きていれば多分そのくらいの状況と思いました。母が着ていたという絣のもんぺの生地の切れ端を持って、どこまでも歩き回ったことを覚えております。私も段々と体調が悪くなり横になってしまうことが多くなりました。夢をよく見ました、それは疎開に出るときに別れた半年前の元気な母の姿でした。・・結局、母は帰ってきませんでした。

電気が来ない状況でラジオも聞くことが出来ない日々、ある日のこと従兄弟がやってきて日本の敗戦を知りました。空を見上げると真っ青な上空を双胴のロッキードが我がもの顔で写真を撮っているのか何度も何度も低空飛行していました。もう防空壕に入らなくてもよいのかとほっとした感情を覚えました。この戦争で肉親三人を失い、父と小学五年生の私を大朝まで迎えに来てくれた姉と三人の暮らしが始まりました。六一年前の出来事です。

二〇〇九年八月一七日その姉を長い癌との戦いの末に八一歳で見送りました、未だ意識のあるうちに確りと感謝の気持ちを伝えとくべきでした。お骨は脆くて拾い上げるのも難しい状況でした。

父は早世した家族の分も生かしてもらったと感謝しながら一二年前に一〇三歳の天寿を全うしました。合掌

 

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