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体験記を読む
 
市岡 英史(いちおか ひでし) 
性別 男性  被爆時年齢 28歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1945年 
被爆場所 広島市牛田町[現:広島市東区] 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 中国軍管区歩兵第1補充隊(中国第104部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

私は徴兵検査の時丙種合格で兵役免除になり、兵隊にならなくてもよかったのに、一九四一年(昭和一六)一〇月、丙種も召集される事になり、一九四三年(昭和一八)七月マライ派遣、暁第二九五九部隊の兵技・通信技兵として東京から、広島城の隣に在った西部二部隊、(終戦時中国第一〇四部隊)の歩兵部隊に入隊、編成され、応召者は各中隊に別れ、宿を借りたのだった。

ところが船が無く二カ月後やっと出発になるが、私共一三名が過剰員で残され、私はずっと歩兵砲中隊に居たが一九四五年(昭和二〇)八月一日、同じ部隊内の通信中隊に移り、勤務が無かったら、八月五日午後「お前は運の悪い奴じゃ、今日は日曜日で休みなのに・・・」と皆に言われ、日通寺弾薬庫歩哨掛衛兵に付けられ、銃を肩に軍装を整え、午後の暑い陽射しの中を、広島市の北牛田迄出かけたのだ。

近くに旧広島藩主浅野家の菩提寺日通寺があるので、その名となっているが、近所の人々は、何の陣地だったのか陣地跡とも呼んでいた。

牛田山(神田山と言う人もいた)の中腹に、部隊の弾薬を疎開し、少し上流の不動院北方の山裾にこの弾薬を格納する横穴洞穴作業中であり、この両方の衛兵勤務に一二名が、六日以後交代兵の無い為一四日迄居たのである。

其処で六日朝被爆するが「運命は紙一重」の例え通り、運が悪いと言われた私は助かり、六日早朝、山の中腹に交代の歩哨を連れて上がった時、「その内やられるだろう」と話乍ら眺めた明け初む広島の町の美景が、二時間後に、大惨劇の修羅場になるとは予想もしなかった。

B29二機と白い落下傘三個を見た直後、八時一六分閃光と大爆発で広島は、この世とは思えぬ地獄の坩堝に変わり、その中からお化けの様になった被爆者が、続々と牛田方面にも逃げて来たのだった。

あの一発で時々刻々変化して行く、周囲の光景に私は出会ったのだ。

綿菓子の様な茸雲の初期。火の気のない処から白煙が立ち、火事になった家と山、倒れた家や貨物列車等恐怖の連続。しかし、それにも増しての驚愕は、膨れ上がった顔と両方の手にボロ布をぶら下げた様になった皮膚、血だらけの裸体には衣服も着けない怪我人が逃げ惑うのを見た事だった。

厳しい衛兵勤務中だったし、医薬品一つ持たない事とて、夥しい被害者の救援活動はできなかった。それに結果論だが欲しがる水も「水を飲むと死ぬ」と言われ、井戸水とバケツ、薬缶はあったから「兵隊さん水を下さい」と求め続け、悲惨な死に方をした人々に死んでも水を与えれば良かったと悔やまれる。

そこで私は「残虐無惨な状況」を書き留めて残さねばと直ぐ、勤務の合間に、胸ポケットに入れていた「衛兵守則」等が記してある手帳の万年筆のインクが無くなる迄、あの混乱の中で三八ページ書いたのであるが手帳は当時の汗に濡れているので半世紀過ぎた現在、一部は新聞や雑誌に少しは出したが、ワープロで誤字等も訂正読みやすくし、あの原子爆弾の惨状に遭遇した時の私は、その一部だけしか書けなかったのではあるが、その現実は後世に伝え残さねばならない義務もあるのではないかと記したのである。


現在の生存者 三名 今も文通しています。
  山崎(現 山下)
  沖山
  市岡

探した時連絡出来なかったのは
  松石
  増田
  下川

他は故人
  司 酒井隊   伍 山崎美古登
 衛 田辺(一)  上 沖山正美 
 歩 水野 頌  上 市岡英史
 一 三宅四   一 馬屋原研一
 二 吉本(二)  上 井手正蔵
 三 井上歩   上 由元徳太郎
 四 山田乗   一 松石邦夫
 五 杉本了   一 増田新一
 洞
   三宅(四)   馬屋原重雄
   井上歩     久本彦一
 穴 内山(作)   光田芳雄
   杉本(三)   下川


八月六日 月

昨夜は巡察は二回、昨日の工兵が居眠りしてゐたとの事故があってこんな遠くまで夜間巡察があったのだらう。明けはなれゆく大気の中を三・四・五号庫のある陣地跡に上って行って、朝日に見え初む。広島市の美景、今日の生活への第一歩を踏み出そうとしてゐる広島!この位置からは初めてなので、ぢっと見た。丁度時間は六時五分、二時間後には此の美しい景色が、黒煙に天日をさへぎられ一瞬にして大阿修羅場と化す等誰れがしらう。広島城を中心にして牛田から白島大芝辺りの近景から、遠くまで平和な姿そのものであった。警報が出て直ぐ解除となる。八時一五分、食事を終らんとした時、B29の爆音を頭上に聞き、出て見る。落下傘の様な白い物が三つ見え、一機が先行し、一機は落下傘の真下(或いは上だったのだらう)と共に東北進してゐた。ヤァ来た来た位で食事をすますべく家に入った瞬間外が、橙色(自分にはそう感じた。)にパット明るくなったと思ふと、ドガンと来た。土は落ちる、ガラスはこはれ、木はとび、戸ははづれ、瞬時にこれだったので、てっきり弾薬庫が狙はれたと我々は感じた。(しかも頭上に落下傘らしいものを見てゐたので・・・)直ぐに伏して次の攻撃に備る。然し次は来ず、爆音も遠く去った故、恐る恐る顔を上げて見る。皆んな無事か・・・異常ないぞ、良かった良かった。歩哨大丈夫か、大丈夫!!返事が良い。全員無事!!

司令の処置に従って衛舎掛は歩哨を連れて山の弾薬庫へとび、自分は一寸離れた民家へ部隊への電話連絡に行く。其の間にも二波が来はせぬかと、不安のまま、ふり返って、弾薬庫の方を見れば山の向ふにもの凄く高いわた菓子の様な一つの土煙りが上ってゐた。電話のある民家へ行って見ると爆風で建具、室内の調具等フッ飛んで、足の踏み入れ場もない程だ。電話、電話、受話機に応信なし。断線、然し此の時、市内全部がやられたとは思はないので(ただ此処日通寺の弾薬庫丈だらうと思ってみた)変だぞと思ひ乍ら引返へす。丁度食事揚げに来てゐた兵隊が居たので、それに取敢へず部隊への連絡を頼む。で一寸周囲を見渡せば、川向ふの人家に三、四軒の火災があり、山にも三、四ヶ所白煙が登ってゐる。焼夷弾攻撃をやったかと、くそっと云ふ気が胸に来る。人家は黒煙を上げて、赤い煙が見える。弾薬庫異常なし。もう少し先に落ちたらしく油類が焼けるか物凄い黒煙が中天高くまで上ってゐる。

山上から、弾薬庫の或る日通寺側の山すそに火災があり拡大したら此の山は一なめだと報告があったので直ちに、道路通りに現場へ急行する。民家が焼けてゐる。人は一人も居ない、消火しなくてはと思っても居ないのだ。さァ大変と、兵の手助けをと思って引返へしてゐれば、途中、隣組長か何にかの様な奴が、弾薬庫に火が入ったら大変だから逃げろ逃げろと盛んに大声で走り廻ってゐる。
「馬鹿野郎」と思はず叫んでしまった。指揮を執って先導すべき奴がと・・・・。逃げるより消すんだ、消えるんだから消せ、消さぬと、家まで皆んななくなるぞと叫ぶ。そして工兵所へ引返へし、兵の増加をつれて行く。火の廻りが早い、もう焼けてゐる。幸ひ人も集って、リレー式にバケツ送水をしてゐる。女も老人も、皆んな懸命なんだ。汗は体全部から出る流れる、額の汗は眼に入る、拭ふ暇もない。只頭を横に振って、ふるい落して消火に努める。幸ひ火勢はおとろへる。やれやれと、皆んなにお礼を云って引上げることにする。途中の道には、家屋倒壊で負傷したらしい人々が三々伍々、戸坂方面へトボトボと歩いて行く。兵隊も多数居る。良く注意して見ると、ホトンドが、顔面、腕、背、胸と火傷を負ってゐる。

それも小さいのから上半身全部の様なひどいのがある。衣服も薄物は焼けてしまって、ボロボロだ。焼夷弾攻撃に対し之等の人々は消火に活躍した結果だらうと、自分は頼もしく感じ、又、負傷を気の毒に思った。

衛生兵が走り「応急手当は不動院でやってゐる」と叫んで牛田の下へ走り去る。

自分は「不動院は直ぐ其処だから元気を出して行け」とやはり叫ぶ。陽照りは暑い。

顔面がヒリヒリする、道路は土ほこりだ。避難民が行く負傷者が行く。兵手の方の火傷者は幽霊の様な格好で、ひどいのになると、兵隊さん水をみずをとフラ、フラ、と全で夢遊病者の様に歩るいて行く。落付いて良く見ると、兵隊も加成り多い。然此れらのほとんどがはだしである、上衣もなければ帽子もない、上半身は裸体だ・・・・。

山へ登って見る、黒煙と砂塵で何処も見えぬ、僅かに三篠方面丈が霞の様に見える丈だ。工兵作業場にあった、重油のドラム缶にでも引火したらしく、ボンボンと音がして黒煙がムクムクと天を覆ってゐる。此の為に、部隊の方向は何にも見えなくなってゐる。弾薬庫は牛田側の板壁が■目茶目茶に折れ、飛びして(屋根はトタンがほとんどなく弾薬の重い箱すら、落ちたり斜いたりしてゐる)、驚いたのは直径二十センチもあらうと思はれるカシの木が中程から折れてゐることだ。何んと云っても気になるのは部隊の事だ。一体どうなってゐるか、道路はどうか、衛舎係が連絡に行って呉れてゐるが、果して連絡出来ただらうか、どうだらうか心配しながら山の上に立ちつくす。鉄帽の頭は重い、草いきれ、汗はびっしょりだ。

火災は拡大するばかりだ。

天を覆った煙は天日為に暗しと云った感、物凄い。前の道路、川を渡って避難する人数は増すばかりだ。

時間は一〇時頃だったらうか、衛兵所へ降りて一息する。工兵所もガラスと云ふガラスは破損し、戸は吹飛び、屋根のトタンはめくれてゐる。自分が居た処へ行って見るとあの瞬間、伏した上に土が落ちて来たのは、壁が落ちて来たのだった。壁はほとんど脱している。銃架はこはれ銃は皆落ちてしまひほとんど傷を木被に受けてゐる。この銃が飛んだ時、此処に何人居たかしらぬが、よく負傷しなかったものだと、今こうして落付いて見て不思議な様な気がする。運が良いのか、我々は微傷だにないのだ。神の加護があったのだ。

間もなく頭に包帯して自転車で兵隊が一人飛込んで来た。
「由元上ト兵殿は居られますか・・・」と大きい声で叫んで来る。
「居るぞ、どうした、やられたか。大丈夫か、お前は誰れだ」と期せずして其処に居合はせた者は叫び、皆な、前にとびだす。
「由元上ト兵殿、やられた。二部隊は全滅です。二班の松本ですよ、牛田の国民学校に居る作業隊に連絡に行き度いのですが何う行けば良いですか、頭の傷が痛くてなりません、水はありませんか・・・」自転車を打ちやる様にして、工兵所へ転がり込む。
「部隊は駄目か!!そうか、やられたか!!オー、水はあるぞ、よし汲んで来てやる。元気を出せ。連絡は此処からしてやる、不動院で傷の手当をして戸坂の学校へ行った方が良いだらう」皆んな松本を中心にして云ふ。傷は頭丈らしい、火傷もない、衣服はチャンと着けてゐるが帽子と編上靴もなしだ。
「そうか、部隊はやられたか!!」

夢中だったから、はっきりわからぬと云ふ、どんな具合に全滅だと云ふのだらうか。吹飛んだのか、焼けたのか・・・・。戦友達はどうしたらう、無事に逃げ出して呉れただらうか、様々な事、沢山の顔が頭に浮ぶ。やがて、松本二ト兵は手当のため去る。兵一名は連絡にも出る。今の場合、工兵だからとか、どうのこうのとは云って居られない、出来る事をやらなくてはいけないのだ。

由元上ト兵は、「松本は俺の戦友なのだ。可愛想に、俺が此処に来てゐるのを知って居て、ああして来たのだらう」と後で語る。自分もつい一週間程前迄は由元上ト兵とも同じ隊で班も隣同士だったのだが、初年兵は余り知らなかった。

十一時近くになって部隊連絡に行った沖山上ト兵も帰へって来る。
「牛田と白島方面は今、火災で工兵橋も渡して呉れず直接の連絡は出来なかった。軍管区○○中尉が隊の方へは連絡してやるから」との事だったことを報告し、向ふへ行く程被害の大きいこと、負傷者の多いこと、負傷程度の大であること等も知らせる。然も負傷者はほとんどが火傷者で、顔面等やられたのは、見わけられぬ。又、地方人より兵隊の方がひどく、兵隊は上半身裸体だった関係か、ひどい火傷だと云ふ。そんなのがウロウロしてゐるし路傍に倒れてしまってゐるのも多いとの事だ。

此処で疑問が起きたのは、何ぜこんなに火傷者が多いか、焼夷弾位ひでこんなにもひどく又多く火傷者が出来たか。そんなになる迄消火に努めてゐながらも火勢はどんどん拡大してゐるではないか。火傷程度も余りにも凄い。背の方に馬鈴薯もしくはゴマリ大の火ぶくれが出来たりしてゐる。爆風にしたって、面白い爆風だ。例へば、一面の瓦屋根に、一ヶ所か二ヶ所全て棒で突いた様な変なことになってゐる。なぜ全部の瓦が動いてしまはなかったかと、牛田近辺ので感じらせられた。

十一時頃になって、裏山が延焼中だと報告が入る。然も幾らか風も出て、拡大するばかりだと云ふことで、地主人と一緒に三、四人で山に登る。成程、相当の火勢だ。炎天の下、山火事は大変である。然も、落葉の多いことと、シダ類の繁茂、それも枯れたものが多いので消火には大変な手数がかかる。消火したと思ってゐても、落葉の下側に火が入ってゐて、風が出る度に、彼方此方と発火して行く始末である。

書落したが、十時頃、天に舞ひ上った黒煙と、火災の煙は、天日を隠してしまってゐたが雷鳴が起り、雷雨となった。牛田附近は大した事もなかったが、約三〇分位、大粒の雨が、パラ付いてゐた。市内の何処かは、相当に降った処もあった事だらうと思はれたが・・・・。何れにしても、雷雨まで起す程、天をおほひ逐した火災の煙であった。

今此の山火事を消しに来て、本当に雨が降ってくれればと念じた程だ。暑い、暑い、焼跡へ入って行くと、靴を通して足の裏に熱を感じる。消しても消しても各所から燃え出して来る火だ。

暑い、汗は出る。然も、正午を過ぎても、昼食にはなりそうにない。食事を持って来てくれる処がないのだ。米もない、皆んな空腹を感じてゐる。然し致し方ない。

一三時頃になって、どうやら収った様なので一度下山することにする。

然し、後程火は再び、三度、四度と出て、其の度に走せ付け、消火の結果、弾薬庫の方へは来ない様にすることが出来た。

努力、奮闘の一日だった。山火事と戦った苦労だった。汗にまみれ空腹に眼は落ちる思ひ、皆んな良く頑張ってくれた。 幸ひに、皆んな、十二名が負傷もなく命拾ひをしたのだ。空腹位がなんだ。皆んなで励まし合ふ、食糧も何んとかしなくてはならない。

然し炊事用具も何にもないのだ。見る通り広島市は延焼中なのだ。時間の経過と共に被害が判明する。はっきりすればする程にそれが大である。然もデマがあるかもしれないが、半分にしても大きい。部隊は全部倒壊消失と云ふ。広島城もその附近の各部隊、家屋等もほどんどの木造建築物は皆駄目だと云ふ。凄い爆風だったと云ふ。一瞬の内につぶれてゐたと云ふのだ。家の内に居た者はほとんどが木材の下敷になったらしい。外に居た者はさっぱり不明だと云ふ。此処で火焼者の状況を書かなくてはならないが、我々が考へてゐた様に、焼夷弾の落下に依る消火にて火傷したのもではなく、あの不思議な光りが出た瞬間、ぱっと暑さを感じて焼けたと云ふのだ。弾風に依り生じた熱風かも知れないのだ。そうして見ると、新型爆弾かもしれない。兵隊は上半身を裸にしてゐたのだからやられた訳だ。薄物は焼けたらしい、ボロボロとしたものを着てゐる者もある。兎に角、自分達が想像してゐる以上に火傷者(ホトンドがやられてゐるらしいが)であり、屋内に居る者は倒壊家屋でやられ、ガラスの破片で負傷する等、負傷者ばかりだ。延焼家屋の多いのも、消火に努める人なく、消防署も、消防自動車もやられてゐる現在、火は消えない訳だ。

天空は煙りだ、煙りの渦だ、重なり合ってゐる。丁度入道雲の様だ。道路上は負傷者、避難民が続々と続く。

交通機関は何にもないらしい、荷車と自転車丈が動いてゐる。

爆撃に依る被害、実に惨!目をおほふ。いたいけな幼子!児童、女、老人、兵隊ことごとくが、火傷してゐる。ガラスでやられたのは血だらけだ。路傍に行倒れてゐるのが居る。戦友に抱かれてゐる者、担架で運ばれてゐる者、可愛想な姿、悲惨の姿!

夕方、南瓜と、馬鈴薯を民家で求めて、煮てもらふ。然し、やはり米だ。民家へ売ってもらひに出かけるが、配給丈で、トテモ足りないと云ふ。仕方がない。明日まで待ってどうにかしよう。いや、手分けして捜して見よう。部隊に連絡が付けば、疎開したのがあるのだから、それまで借りておけば良いと説も出て、後者の意見に従ひ、日暮れてから、朝食分は入手出来る。

日暮れなんとする、此の牛田の道を負傷者は後から後から続く。夕方になって応援に来たトラックが工兵橋の処から運んでゐる。負傷者達よ気の毒でした。君達は、鬼畜の犠牲になったのだ。君達の背に顔に四肢に、火ぶくれしてゐる火傷、ゴムマリの様に、水をもってゐる火傷!皮がむけて下がってゐる火傷、見分けられぬ顔面となった火傷、水を欲する火傷、寝転ぶことの出来ぬ火傷。

皆んな気の毒でならない。

我々は見てゐるのぢゃないのだ。我々は皆んなに手を貸し得ない任務があるのだ。

悪るく思はないでくれ。我々は二四時間勤務だったのだ、然し交替も来ない有様だ。

宵空に、赤々と燃え続ける広島、夕空に白く光る太田川の流れ、何事もなかった様だ。

斯くて、爆撃には来ないと云ってゐた広島市民の声を他処に、物凄い結果を見せた、今日一日は暮れて行く。然し見よ、負傷者は夜道をさまよひ、子供は親を、親は子を捜し求め、寝るに家なく、食ふに食なく、死に至る声を姿を、星の光りに浮べてゐる。見よ聴け、ドラム鐘は、叫んでゐるぢゃないか、恨みの涙は黒々と天に昇り、怒りのほのおは、夜目にもはっきりと狂ってゐるぢゃないか。あのほのおの下に幾百、幾千の肉体が、霊が亡び恨み、報国の骨となり煙りとなって行ってゐるぢゃないか。

 

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