昭和二○年八月六日月曜日、いつものように外での朝礼が終わり二階の部屋へ戻って、書類や筆箱を机の上に置いた瞬間物凄い力でこれらが舞い上がり頑丈な梁の上に乗りました。反射的に窓の外を見た私の目の前に大きな太陽が落ちて来たと思いました。それは地平線の彼方に沈む夕陽の美しさとも比較にならない、もっともっと美しい真赤な巨大な円いものでした。これまで一度も見たこともない美しさでした。しかしそれと同時に強い恐怖感に襲われました。防空壕へ逃げ出そうと窓に背を向けた瞬間、間違いなく火傷をしたと思った程のこれまで経験したことのない強烈な熱線を感じました。それは私がこの目で見て身体で感じた世界で初めて落とされた原子爆弾だったのです。当時私は暁第二九四○部隊船舶隊司令部に勤めていました。しばらくして防空壕から出た私たちは屋外にいて火傷をし皮膚がむけてたれ下がった人々が診療所へ来るのを目にしました。コンクリートの広いホームに沢山の負傷兵が運びこまれていました。私達はお水やお粥や冷凍みかんをその人達に食べさせてあげる役目を申し渡されました。そのそばに三○代くらいの女性がひとりご主人だと思われる人の面倒をみておられる様子でした。こんな時奥様に看病されて何と倖せな人だろうと思いました。するとその女性が私に声をかけてこられてびっくりしました。自己紹介されたのを伺い以前職場でご一緒したT先生の奥様と判明しました。広島城内の司令部に召集され屋内被爆で建物の下敷になられたのでした。よく見ると紛れもなくT先生でした。鼻の真中が真二つに切れ意識のないまましきりに譫言を云っておられましたが翌朝もうそこには見当たりませんでした。また負傷兵の中に「母がひとり京都にいます。京都はいい所ですよ。遊びにいらっしゃい。僕が案内します」と誰ひとり元気な声で話しかけてくれた若い幹部候補生も次の日は物云わぬ人として筳がかけられていました。住所をお聞きしておけば京都のお母様に最期の様子をお伝えできたものをと五○年経たいま悔まれてなりません。
翌七日爆心地付近で顔がパンパンに腫れ上がり頭髪はアフロヘアーのように焼け皆同じ顔つきで死んでいる多くの人達を見て、どんなにか熱かったことだろうと自分の受けた熱さを思いとても胸が痛みました。中にはむごい黒焦げの死体もありました。相生橋を渡ってまもなく道端のコンクリートの防水用水槽が目にとまりました。その中に赤ん坊を抱いた母親がまるで生きているように坐っていました。着物をきちんと着たまま外傷もなく思わず声をかけたくなる程その母子像はきれいな姿でした。いまにして思えばあれは幼いキリストを抱いた慈愛深いマリア像さながらでした。爆風に飛ばされたのか熱さに耐えられず思わずそこへ飛び込んだものか見当もつきません。あれから半世紀経た現在子どもを抱いた倖せそうな母子を見るとあの日の物云わぬ母子像と重なってしまうのです。
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