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バット一筋 
張本 勲(はりもと いさお) 
性別 男性  被爆時年齢 5歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1976年 
被爆場所 広島市段原新町[現:広島市南区] 
被爆時職業 乳幼児  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

(前略)

●原爆手帳を持つ唯一のプロ選手

わたしは、母の胎内で、朝鮮半島から玄界灘の荒海を越えて日本にやってきた。

母の名前は「朴順分(パク・スンブン)」といい、今年七十五歳になる。昭和十五年三月、母は三人の小さい子供の手を引き、日本統治時代の朝鮮・慶尚南道昌寧郡(キョンサンナンド チャンニョングン)というところをあとにして、玄界灘を船で渡ってきた。わたしの父「張相禎(チャン・サンジョン)」はすでに単身で来日していて、広島で古物商をやっていた自分の弟の家に身を寄せ、やがて大洲町の長屋を借りて書道塾をしながら、母たちを呼び寄せた。

当時、母は三十九歳で、三人半の子供がいた。長男が八歳の世烈(セヨル のちの日本名・張本世治)、長女が六歳の点子(ジョムジャ)、次女が二歳の貞子(ジョンジャ)、そして母は身重で、そのとき母の胎内にいたのが次男のわたしだった。

わたしは「六月十九日」に生まれたが、これは韓国暦の六月十九日で、日本暦とは少し違うが、わたしはこの生年月日でこれまで生きてきた。

父がのちに病死したため、わたしたち一家はその後も広島市に住みつくことになるのだが、当時の広島は“軍都”で、軍管区司令部や江田島海軍兵学校などがあり、太平洋戦争への道を突入していく。非常時の日本の中で生きる朝鮮人家庭は虐待され、差別され、わたしたち一家も身を潜めるようにして生きていた。

そして、八月六日の「ピカドン」のその日-。

わたしは五歳だったが、その日のことは断片的だけど今も鮮やかに覚えている。こうして目をつぶると、悪夢のような記憶が浮かびあがってくる。

当時、わたしたち一家は、わたしの生まれた大洲町の長屋から、段原新町の長屋に越していた。そこは比治山の裏手にあたる。

その日の朝、兄貴の世烈と姉の点子は勤労動員にかり出されて外出しており、家には母と次の姉の貞子とわたしがいた。わたしが玄関を出ようとしたときだった。

ピカ、ドン。広島に原爆が投下されたときはまさしくそんな感じだった。それから、ダダダーと家が一瞬のうちに崩れおちてきた。気がついたら、わたしと姉は母の懐に抱かれて、うつぶせになっていた。母は飛び散ったガラスの破片でもう血だらけ。ハリネズミのように破片がささり、姉も血が出ている。母が必死で叫んだ。
「ネーペーラツ(逃げろ!)カグラーツ カグラーツ パルリーツ(行け、早く、行け!)」

それは絶叫だった。

家から百メートルほど離れた東雲町のブドウ畑に逃げろ、あとでそこで落ち合うから、という。

わたしと姉は真っ青になって逃げた。子供心にもすごく遠い気がした。母と再会できたのはそこのブドウ畑でだった。
「チャル サラッタ(生きていてよかった)」

母がわたしたち姉弟をひしと抱きしめて泣いた。

兄の世烈は広島駅で被爆し、左手に火傷をしたが、半日ぐらいしてから、ブドウ畑にわたしたちを探しにきた。姉の点子は、そのブドウ畑の避難場所で恐ろしい一夜を過ごした次の日、担架で運ばれてきた。被爆して全身火傷の重傷。見るも可哀相に焼けただれていた。

「熱いよう、熱いよう」
と、苦しそうにうめく。

治療しようにも、医者はいないし、薬もない。だから、わたしは母の命じるままに、小さい破った布きれをもって、川へ走って濡らしてきてはまた走ってもどり、姉をその布でふいてあげる母をみていた。

川へ行く途中、もう原爆でやられた人たちの屍が累々としている。わたしは、姉を助けたい一心で、そこを何度も何度も往復した。恐ろしいなどという感覚はなかった。

「熱いよう、熱いよう」
姉がのたうつ。

助けてあげようにも、どうすることもできない母と兄。それを悲しくみている姉とわたし。
「・・・・・・ジュグッタ(死んだ)」

母が虚ろな目でいった。それからワァーッと号泣した。いつまでも号泣していた。姉の点子は苦しみながら・・・・・・死んだ。まだ十二歳だった。

一瞬にしてピカ・ドンの犠牲になった広島の人たちの数は約二十万人。その中には二万人の「朝鮮人」の死者も含まれている。

三年前の昭和四十八年八月六日に、初めて「韓国人被爆者慰霊碑」が建ち、その除幕式で、わたしの兄の世烈が遺族代表として弔辞を読んだが、その慰霊碑は平和公園内に建てることが許されなかった。死んだ今でも、韓国人は差別されているのだ。このことに、わたしは怒りを禁じえない。それは、人間なら誰でも感じるはずの怒りである。

わたしは今、「原爆手帳」をもっている唯一のプロ野球選手だ。

八月の「ピカドン」の日がくるたびに、わたしは「熱いよう、熱いよう」と苦しんで死んでいった姉の姿を思い出すのである。

●母の冷たい手

原爆で焼けだされたわたしたち一家は、東雲町のバラック小屋に移って、かろうじて雨露をしのぐ生活が始まった。

普通、“朝鮮部落”というのは五、六十軒密集していたが、この東雲町だけはちょっと離れていて六軒しかなかった。六軒といっても、いずれもトタン屋根の粗末な家で、便所は共同で、炊事のための水道も外で共同使用、風呂などはもちろんない。

入るとまず二帖ほどの土間がある。そこでご飯を炊いたりする。次の間が畳二帖の板の間。あとは六帖と四帖半の部屋。ここに母と兄貴と姉とわたしの親子四人が住んでいた。文字通り極貧の少年時代だった。

生活するために、母がそのバラックの板の間を改造し、ホルモン焼き屋をやり、兄の世烈がその買い出しを手伝った。ホルモン焼きは、広島駅前の闇市で牛や豚などの密殺した肉や臓物などを仕入れてきて、それを食べさせるわけだが、お客はホルモン焼きよりも、酒のない時代だけに密造酒を目あてに集まってきた。焼酎とか、ドブロク、そうした密造酒を母は提供していた。もちろん警察に知られたら捕まる。しかし、敗戦直後の焼け跡のなかで、他に生活の手段をもたないわたしたち一家は、母と兄が密造酒のイッパイ飲み屋をやることで、かろうじて生き延びてきたのである。

あれは、小学校三年のときだったと思う。ハッとしたことがあった。

母は、どんなに暑い日でも、寒い日でも、闇市に仕込みにいく。ちょうど、そのときは冬。段原から駅前までは、バスに乗れば十分か十五分でつく。バス賃も当時は十円か十五円ぐらいだったと思う。ところが母は、いつも下駄ばきで歩いて往復していた。

子供のわたしには、なぜバスに乗らないのかな、と不思議だった。

その日は冷たい雪が降っていた。わたしたちは土手で遊んでいた。向こうから母がきたので、わたしは母のところへ駆けていった。この雪が降る日に、母は裸足で、手袋もしていない。頭と背中に白い雪がつもっている。その手袋もしない両手には重い荷物をさげて、あえぐようにして歩いてくる母。バスなら十分ですむが、重い籠を両手にさげた母の足では三十分以上はかかるだろう。
「バスがあるのに、なんで乗らんのじゃ」

と、わたしが聞いた。母が悲しそうに笑った。
「バス賃がもったいないじゃないか」
「じゃあ、ワシがその籠もってやるよ」

わたしは無邪気にいって、母の手にパッとふれた。

そのときの驚き・・・・・・、母の手はものすごく冷たかった。氷みたいな手をしていた。
<お母ちゃんの手が凍ってる>

その冷たさが強烈な印象として、わたしの心にやきついた。お母ちゃんの手が凍ってしまう、大変だ、大事にしなければ・・・・・・、幼い心にもそう思った。わたしが、のちに親孝行を何よりも心がけているのは、少年の日のこの鮮烈な記憶があるからであった。それほど、わたしたち一家は貧乏だった。

●段原のハリ

こうした極貧の家庭の子供でも、わたしはすくすくと育ち、体格も人より大きく、小学四年あたりからは喧嘩のガキ大将となった。

前にもいったように、韓国人の子供は虐められっぱなしで、いつも泣きの涙をみて黙って引きさがるだけ。わたしにはそれが悔しかった。それが、母に「朝鮮人をあざける人間こそ下等なんだよ」といわれてから、わたしは売られた喧嘩は必ず買って、相手をやっつけるようになった。

わたしは現在、握力が八十いくつあり、人にはめったに負けないが、昔から腕力も強かった。小学校五、六年になると、喧嘩もかなり派手になる。こっちから喧嘩をしかけることは絶対なかったが、自分の目の前で韓国人の仲間が日本人にいじめられているのを見ると、もう我慢ができず“助っ人”をかって出て、相手を叩きのめした。

一発叩かれたら絶対に十発は叩き返す。わたしは絶対に逃げない。相手が完全に敗北を認めて逃げるのなら許すが、喧嘩をやりかけて途中で逃げたりしたら、絶対に探してきてきっちり“かた”をつける。やる以上は最後まで徹底的にやらないと気がすまない性質なのである。

喧嘩は段原中学に入ってからは、ますます壮絶なものとなり、わたしの名前はもう喧嘩仲間で誰知らぬものがないほど有名になっていた。相手も高校生を通りこして、もうヤクザのアンちゃんたち。ちょうど、映画の『仁義なき戦い』で有名になったように、当時の広島はヤクザの抗争が激しく、ちんぴらも多かった。

わたしたちが下駄はいてブラブラしていると、向こうが「ガキは生意気だ」とからむ。こっちは五、六人、向こうも十人ぐらいいる。それならやるか、ということになって、比治山の静かな場所で乱闘が始まる。わたしはめったに負けはしなかったが、レンガでバーンと顔を殴られたこともあるし、ジャックナイフで腹を刺されたこともあった。

韓国人の子供として日本に生まれたわたしは、虐げられた怨念を喧嘩で晴らしているうちに、いつか「段原のハリ」と恐れられる少年になっていた。

母が嘆く代わりにこういった。
「お前の気性だから喧嘩はするだろう。喧嘩してもしようがない。でも間違った喧嘩だけはするな。そして、いったん喧嘩したら絶対に負けちゃいけん。人に負けたらいけんのじゃ」

このまま喧嘩を続けていれば「段原のハリ」は、きっと“仁義なき戦い”のヤクザか何かになっていただろう。その“悪の道”からわたしを救ったもの、それが野球だった。

(後略)

※ この被爆体験記は、一部を抜粋しています。
出典:『バット一筋』講談社 昭和51(1976)年

 

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