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被爆体験について 
伊藤 雅浩(いとう まさひろ) 
性別 男性  被爆時年齢 10歳 
被爆地(被爆区分) 長崎(入市被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業 児童 
被爆時所属 国民学校 5年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

当時私は母と弟と一緒に北高来郡田結村(現在の飯森村)に疎開していました。原爆投下の時弟は家の前の海で泳いでおり、「ピカッと光ったよ」と驚いて家に入って来、それからしばらくして、凄い震動、衝撃音がありました。長崎から直線距離にして一○キロメートル。「ピカ」と「ドン」の間が約三○秒あったわけです。たちまちに原子雲が空いっぱいに広がり、真夏の太陽が頭の上で赤く小さく頼りなく見えました。そのうち灰が降って来、米殻通帳、手紙などさまざまな紙が降り、そこに書いてある長崎市浜口町、松山町などの町名を見て長崎が爆撃されていることを知りました。

当時、珍しかったのですが、私は国民学校五年生で自転車を持っていました。今高校生でバイクに乗っているよりもっと少なかったのではないでしょうか。長崎から団結村まで四里半。私は母に命じられて長崎へ向いました。長崎には、私の姉が女学校一年生で知人の家の寄留しており、松山町には私の父(当時、中国に出征中)が出資した工場がありましたし、駒場町に親戚がありました。

妹は小島町に寄留していたので、家はガラスが全部割れていて、家財が散乱していましたが無事で、それから爆心地に向いました。浦上駅前あたりから街は壊滅状態で、家屋はすべて倒壊しており、道ばたで倒れて「水をくれ」と訴える人が数多く居ました。道は両側から家が倒れていて歩くことができず、市電のレールの間をみんな歩いていました。私も自転車をかかえて、大人の後を歩いて行きました。岩川町で知合いのおじさんに出会いましたが、お互いに長い話をする余裕はありませんでした。

人や馬はそのままの形で白い灰になっていました。火傷での皮膚をぶらさげたまま歩く人、眼球がとび出てぶら下がっている人、さまざまな悲惨を見ましたが、その時には気持ちは何も感じなくなっていたようです。

爆心地に近く、下の川という小さな川があり、市電は小さな橋でその川を渡ります。大人たちは、くずぶっている線路の枕木をとんとんと渡って行きましたが、自転車をかかえている一○歳の私にはどうしても渡れませんでした。松山町の工場へ行くのに稲佐橋を渡って迂回する道があることを知っていましたので、そちらへ向いましたが、橋は渡れず、うろうろしているうちに暗くなり、とうとうあきらめて小島の知人の家に戻りました。

下の川の橋のそばから稲佐駅までを二回往復しましたが、そばの三菱製鋼所の鉄骨が材木が燃えるように炎をあげていたのを記憶しています。後から考えて、鉄も燃えるのかと不思議に思いました。

松山の工場は全滅で、中に居た人は全員即死だったそうですが、駒場町の親戚は私より幼かったいとこが防空壕に居て無事。焼跡の自宅へ戻って、駆けつけて来た父と姉に会い、一晩をそこで過ごし、翌々日私が疎開していた田結村にやって来ました。

私は一晩を小島の知人の家で過ごし、翌日田結村に帰りました。私の自転車はガラスの破片でタイヤもチューブもずたずたになり、帰り道は乗れず、多くの避難民と一緒に歩きながら帰りました。帰ったら頭から足の先までまっ黒で、私の母親は私をすぐ井戸のそばにつれていき頭からざふざふ水をかけて洗いました。

私のいとこはそれから鹿児島県の甑島へ行き、阿久根台風による鉄砲水にあい、病院に行く間もなく急性肺炎で死亡しました。私が行って、何とか私と一緒に早く連れ出せていたらと、その後、悔みました。

私の自転車は修理ができない程ぼろぼろになっていて結局捨てました。

 

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