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私の長崎原爆体験記 
深堀 千代子(ふかほり ちよこ) 
性別 女性  被爆時年齢 22歳 
被爆地(被爆区分) 長崎(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

一九四五年八月九日、長崎の空は青く晴れ渡り、東洋一を誇る浦上教会のステンドガラスに朝日が美しく映えていた。近くの森からは、しきりにセミが鳴いていた。「今日も暑くなる」と独り言しながら、私は学徒報国隊の引率者として元気良く長崎港の三菱造船所にむかった。午前八時であった。

大波止に泊まっている報国隊専用の連絡船の入口で私は、生徒たちが揃うのを待っていた。突然空襲警報を告げる不気味なサイレンが鳴り響いた。数日前の激しい空襲で、学徒は警戒警報で出動は自由となった。数人の生徒が家に帰っただけで、大半は私について出動した。

十一時頃であった。けたたましい空襲警報と同時に、稲妻のような強い光に目をおおった。慌てて地に伏せようとした瞬間、爆発音とともに鉄板のテーブルの下に吹き飛ばされていた。身を守るため本能的に隠れたのかも知れない。濛々とした土煙に混じって屋根や柱が轟音とともに崩れ落ちてきた。辺りは暗くなって何も見えない。この作業場に大型の爆弾が落ちたとみな思った。間もなく回りが見えるようになった。みな灰塵を被り、目だけを大きく見開いている。生徒の中には負傷して、額から、頭から血を流している。負傷した生徒たちの応急処置をし、支えながら防空壕に退避した。そこには全身火傷した人たちが、助けを求めて叫んでいた。連絡船は壊れて出ない。心細がる生徒たちに「学校に帰れば大丈夫だから、しっかりしなさい」と励ます私も恐怖におののいていた。防空壕の外は一面瓦礫と化し、火の手が上がっていた。焼けただれ服もぼろぼろの人々が崩壊した病院の方に走っている。一体何が起こったのだろうか。午後三時頃やっと小さい渡し舟が、近くの島から助けにきた。負傷した生徒を背負って分乗して大波止に渡り、東山手にある学校へ向かった。この頃は長崎は火の海であった。たどり着いた学校も屋根は飛び、窓ガラスは壊れて散乱し、負傷者が出ていた。これが恐ろしい原子爆弾とは誰も知らず、互いに自分たちの所が直撃されたと思い込んでいた。浦上方面の生徒たちを連れて家に帰ろうと長崎駅へと向かったが、火の海で通ることができない。一体長崎の町はどこに消えたのだろうか。その異常な様に呆然とした。浦上だけは無事だろうと念じて学校に戻り、その夜は生徒たちとともに、校庭の防空壕で休んだ。

翌朝、燻る長崎の中心街を通って浦上へと向かった。中心街から少し離れた静かな私の町だけは、爆撃から免れていることを希望して歩いた。行けども行けども一面焼け野原である。トラックや市電の残骸の間に太陽を避けて息絶え絶えに「水を、水を」と悶え苦しんでいる。何も持たない私、手伝えない。「救護隊が来るから、元気だして」と虚しい励ましの言葉で逃げるようにして去る自分が、情けなかった。川の水は枯れていたが、必死で水を求めて這っていった人々が折り重なって息絶えていた。側溝にも陰を求めて入ったであろうか、人間とは思えない形相で息絶えていた。道端には助けを求めて、私たちの足に縋り付いてくる負傷者でいっぱいである。生き地獄であった。

父の勤めている浦上駅の傍の三菱製鋼所も無残に破壊され焼け落ちていた。父はどうなったのだろうか。探す術もなかった。兄家族が住んでいた橋口町は(今の平和公園の傍)跡形もない。本原町の私の家(南山学園の下)だけは念じていたのも虚しく、瓦すら残っていなかった。放射線の灼熱、爆風の凄さを物語っていた。小さい木切れに父の字で「川平の親戚に避難している」と書かれていた。家族もきっと無事と安心して、その日は仲間の教師や生徒たちの安否を尋ねて歩いた。三日目にやっと身内を探して、川平の親戚を尋ねた。そこにも避難してきたけが人でいっぱいだった。父は爆風で背中にガラスの破片が突き刺さって苦しんでいた。家で九人ほどの小学校の仲間と学習していた末の妹は、怪我は軽かったが、発熱、嘔吐そして髪が抜けはじめ、歯茎から血を出していた。なす術もなくじいっと耐えていた。あの時の恐怖に怯えていた。そこで私は母や弟や、兄の家族の死を知った。家にいた末の妹は、口を閉じて何も言わない。すぐ下の妹が涙ながらに母と弟の死を語ってくれた。崩壊した家の下敷きになって助けを求めてもがいている妹たちは、屋外にいて全身焼けただれ見る目も哀れであった母親たちに助け出された。被爆し息絶え絶えであった母親たちの子を思う母性愛だけで、子どもたちのいのちを救ったのであった。危機一髪の私の家は、焼けて終い、母親たちも次々と死んでいった。助け出された子どもたちも数日後次々と死んで、妹と二人の子が奇跡的に助かっている。

戦争中も平和を願って朝夕祈りを絶やさなかった浦上教会が一瞬にして八千人のカトリック信者とともに焼き尽くされてしまった。私は熱心なカトリック信者でありながら、神を呪った。「なぜこのような善良な信者にこんな酷いことを、神は許されるのか。もう神などこの世にいらっしゃらない」と。そしてこの原爆のみじめさを忘れるため長崎を去って東京に出た。二度とこのよう戦争をおこしてはならないと心に言い聞かせながら。

 

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