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広島原爆の日の思い 
因幡 昭治(いなば しょうじ) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2010年 
被爆場所 三菱重工業㈱広島造船所(広島市江波町[現:広島市中区江波沖町]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 修道中学校 4年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

昭和二〇年八月六日

午前六時母(ミユキ)が起こして呉れる。六時四〇分頃海田市駅発汽車で七時〇〇分着、広島駅前の自転車置場へ行く。芸備線向原より友人藤東俊雄君に逢う。広島駅前自転車置場に行くと、藤東君の自転車がパンク、仕方なく小生の自転車二人乗りで鷹野橋経由で三菱造船江波工場に行く。

途中鷹野橋付近で、弟幸雄(修道中二年)と数人の二年生に敬礼を受けた。当時、雑魚場町(現国泰寺町市役所の東側)建物(木造)解体作業へ行く。何故かと云うと日本の建築は木造なので、焼夷弾攻撃をするので、建物の火道を切る(五〇メートル~一〇〇メートル)、片方が焼けても片方は焼けない。当時旧中学生、女学生二年生までは建物解体作業で被爆した。

米軍は全国ほとんど焼夷弾攻撃であった。私は三菱造船江波工場、午前八時艤装工場木工場で、点呼、訓示、終了後、各部所に就く途中、赤黄色の閃光、熱い、しばらくして爆風、無意識の内に走り仕事場机の下へ伏せる。二~三秒後爆風爆音熱風、周囲は暗くなる。立ち上がらうとしても立てない。四つんばいになって、工場の外の防空壕へ飛びこむ。朝鮮からの動員の人も窓から前の、破片で顔が真っ赤な姿で防空壕に入って来た。

壕より出て中区市役所方面を見ると、キノコ雲の中から黄色い棒の様なものが、ひらり、ひらりと落ちていた。何だろうか?

同級生と江波の酸素工場が爆発だ、いや皆実町の「ガスタンク」(現広島ガス)、色々なデマが飛んだ。

九時~一〇時頃になって市内より避難して来る人がだんだんふえて来た。黒い雲から黒い雨が数分ふって来た。顔、手、水ブクレの人や全身ヤケド、これは大変だ、何だらう。

午後一時頃特殊爆弾(新兵器爆弾)らしい情報が入った。己斐、天満町、江波北付近には黒い雨が降って来た。

午後三時頃、家に帰りたい人は帰ってもよいとの事で私は自転車で海田まで帰る事にし工場を出る。江波山手より七軒茶屋(現舟入)土手で全身火傷の男、女(中学生の様)「イタイヨー、イタイヨ」と云いながら、江波方面へ歩いて行った。(手の皮がむげて手の長さが倍になっている様に見えた)

腕の皮ふが逆むげになっている。頭は帽子をかぶっている所は焼けていない(カッパの反対)。川(元安川)を見ると、(全身真赤でふくれ上がった)死体が多く流れている。住吉橋を渡った、右橋のたもとに呉からの海軍さんが川に流れている死体を上げ、山積にしていた。道路は電柱が倒れて燃えている。明治橋のたもとも死体の山である。防火水そうには男性が頭を突込んだ死体があちこちの水そうで見た。鷹野橋を経由して、稲荷橋(木造)を渡り、比治山の南を通る。一面焼のケ原である。段原付近は焼けていない。兵器廠(現広大病院)の横を通り自転車は電柱が倒れている所は、担ぎながら、東大橋を渡り大洲、向洋(東洋工業、現マツダ)船越を経て、自家の海田、中店へ帰る。五時半頃、母がビックリして喜んだ。

弟幸雄は修道中学二年生で広島市役所東側付近(国泰寺町)(当時は雑魚場町)へ家の火道を作る木造の家の解体作業をしていて被爆した。同級生東帰君が戸坂へ帰る途中、因幡さんが兵器廠(現広大病院)へ収容されていると、海田へ帰る人に伝言したが、その人が被服と間違えて連絡した。母と兄が被服廠へ行き、探したが居ない(現広島工業高校、皆実高校)。私は八月六日、七時二〇分頃弟と鷹野橋で別れた状況を説明すると、母と長男と私三人で市役所付近へ行く。午後八時三〇分頃であった。探したが見当たらない。

市役所南側グランド北道路で苦しんでいた生徒にたずねると、広島一中二年生?荒谷ですと答え、水が呑みたいと云ったが、火傷は水は呑まない方がよいと当時は聞いていたので、「ガマンしなさい」と云うと「ハイ」と答えました。今になって思うと、水を呑ませてやればよかった。いまだに私の脳裡からはなれない。寒いと云ったので市役所地下室の暗幕を破り、多くの死体、ウメキ声、腕時計が死体の人から「カチカチ」としている中をかきわけて外に出て荒谷君に掛けてやると、有難うございますと、大変よろこびました。

貴方の住所はと聞くと賀茂郡西条と云った(現東広島市西条)。私の母が荒谷君の家を知っていた。すぐ連絡してやるから、ここを動くなと云ったら「ハイ」と元気よく答へた。
「その後家族の方が、探されたが行方不明である」
 私たちは鷹野橋から日本赤十字病院へ行き探す。窓は吹っ飛び廊下、部屋には死体、負傷者ばかり。そこで大声で因幡幸雄は居ないかと、いったが返事はなかった。次に兵器廠(現広大病院)の中に入り、一~五棟(レンガ倉庫)で探したが居ない。やむなく徒歩で海田迄かへる(母がもうあきらめて帰らうと云う)。翌七日朝五時頃、加里本さんが、お宅の息子さんが兵器廠に収容されておられますといわれたので、早速荷車に「フトン」をつみ急いで行ったが、憲兵にストップされ、門の外に名簿が掲示してある家族のみ入場許可と云う。それは死亡の名簿である。しかし弟はここに収容されているといっても許可しない。そこへ修道の青木先生を見かけた。因幡君どうしたのと、青木先生。小生の修中二年の弟がいると云う。青木先生が憲兵に掛け合って下さり、ようやく入った。昨夜の一号~五号は行ったので、六号レンガ倉庫に行った(現広大病院立体駐車場外来受付付近)。倉庫の入口で、タンカの上で熱い熱いと云っていた、安芸郡坂町中村さんが全身やけどで、太陽の光で熱いので、日陰へ移動させたら、大変喜ばれた。

それから、倉庫の中には足場がない程死体、負傷者がいる。七~八メートル位中に腰バンドのバックル(ボクシング)が見えた。顔、頭(帽子をかぶっている所は焼けていない「カッパ」の反対の様)上半身火傷している。幸雄と声をかけると「ハイ」と返事をした。兄と私で幸雄の所へ行き、おこそうとしたが、火傷がひどく持てない。幸雄は、死体、負傷者の中を歩いて出て荷車の「フトン」に乗った。弟は友達に連絡したのに三日たっても連れに来てくれなかったと云ふ。一日も経っていないんだよと云った。長く感じたのでしょう。

東大橋、大洲、向洋、船越を経て、二時間位で家(海田)まで帰った。その間、空しゅう警報が鳴る。座敷へあがらうとしたが、立てない(安心したのだらう)。そこで「フトン」といっしょに運んだ。

空しゅう警報が鳴ると防空壕へ入りかけると、幸雄は、私を置いて逃げるのか、母は一緒におると云って幸雄のそばにいた。母親の愛と云うものは何ものにもかえられない、ただただ感謝するものです。私の家は御用商人であった関係で軍医さんが午後一時頃来られて注射し、お茶を多く呑ませといわれ介抱する。便所へは一人で立って行った。しかし八月八日午後四時五〇分頃心臓が止まったと幸雄が云う。そんな事がわかるのかと聞くと、止まっていると、云いながら数分後息を引き取った。

八月一〇日午後、海田火葬場(現児童館)へ行ったが空きがない。外の広場に穴を掘って火葬した人の後をお願いして弟を火葬した。焼けた骨は原爆で焼けた部分の骨は黄色の骨になっていた。次々と火葬に来るが場所がないので、道の側を掘るなど、又瀬野川の堤防等を掘り火葬した。誠に残酷なものでした。二度と全世界に原爆を使用してはいけない。おそろしい思い出は今も脳裡からはなれる事はない。二度と戦争はしてはいけない。

その後幸雄の兄である昭治の行動について

定かでないが昭和二〇年八月二〇日頃、修道中学へ行き倒壊した校舎の後片付けをする(焼けていない)。昭和二〇年一〇月と記憶しているがバラック校舎で授業を受けたと思う。秋から冬にかけて歩いて広島駅から、南千田町の修道中学迄(当時小生四年生)登校した。帰宅の途中焼のケ原の中で八丁堀付近の、太陽館(現天満屋)福屋の屋上等上がったりしながら登下校した(写真あり)。白神神社付近で陸上競技選手の仲間と写真を撮ったりして通学した。

 

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