私は八月六日の朝七時過ぎ、矢野から勤労奉仕のため、広島の鶴見橋の集会所に出向きました。その日は、太陽がギラギラ、目を刺すようなとても暑い天気でした。二階造りの家の中で解体作業に取り掛かり、八時一五分とても恐ろしい原爆にあいました。突然外が暗くなり、鼻を突くような匂いがして、それから私はいく時間気を失いました。みんなの「助けてくれー、助けてくれー」と、言う声で正気に戻りました。私は家の下敷きになっていたのです。外に出ようと小さな光の差し込む方向へ体を動かそうとしても、足の片方が木材の下敷きになっていて、身動きができません。幸いズックを履いていたので足が抜けて、光の方へ光の方へと瓦礫をかき分けて這い出しました。その日、地下足袋を履いていたら、足が抜けずに、息途絶えていたと思います。
外へ出たら、助かった人たちが、「家の中に閉じ込められた人を助けえー」と、叫ばれました。私は自分の足が立ちませんでした。その辺の竹の棒を拾って、やっとすがるように立ちました。片方の足が熱いので、ごみ箱から下駄のような履物(やつおり)を見つけみんなについて歩くのがやっとで、後を追いました。みんな「早ようー。早ようー。」と後ろを向いて言ってはくれても、みんな我が身で精いっぱいでした。その時、空襲警報が鳴り金属音がしてB29が空を飛んでいた。だんだんとみんなと差が付いて、とうとう一人になりました。ハスの田んぼの畦道でB29が通る度に、ハスの葉で姿を隠しながら、ソロソロ歩きました。
道端に血のついた服を着て倒れている兵隊さんもいました。たぶん、死んでおられたと思います。大勢の人が着物やモンペもぼろぼろ、髪の毛は逆立ちのようになり、男女の区別もわからない姿でした。広島ガスのタンクが、「ボカーン、ボカーン」と大きな音で爆発している。その中を矢野を目指して歩きました。方向もわからず途方に暮れていました。道の途中で南区の大河の学校へ行ったら治療をしてくれると教えられ、そちらに行きました。
学校の入口の溝に中学校の生徒のような男の子がはまって、「お母さん」、「お母さん」と、かすかな声で呼んでいました。
病院の先生に「あの子供さんを先に診てあげて下さい」と頼むと、先生は「あの子はもう助からん」と言われ、とてもかわいそうでなりませんでした。みんな死ぬ時は、「お母さんー」、「お母さんー」と言っていました。
私の怪我は治療室の先生から、腰の中だから、わからないので大きな病院でレントゲンを撮るように言われ、何の手当てもなくソロソロ帰りました。途中で、一緒に奉仕に来たおばさんと出会い、その方は全身やけどにおおわれ、「水をくれー、水をくれー」としきりに言われるのを、「おばさん、今水を飲むと命はないんよ」と言いながら、その人を引っ張って船着き場まで戻りました。もう、船は岸から離れていましたが、大声で「助けて下さい、怪我をしています」と叫んだら、船が後戻りしてくれました。私は、腹の回りにお金をしばっていましたので、二人分の船賃を払って乗せてもらいました。着いたところは、どこに着いたかのかも解りません。その場でもう歩けなくなり、やけどしたおばさんを別の人に頼みました。その方は、やけどがもとでその後亡くなられたと聞きました。
長い時間その場で、もうだめだと茫然としていましたら、親戚の人が大八車にムシロをつけて探しに来られた姿が目に入り、「ここじゃー。あんさん、ここじゃー」と叫びました。やっと助けられました。あんさんの持っていた握り飯を、弱っていた周りの人にも分けてあげました。親戚の人は、一回目は布団を積んで捜しに来てくれたそうです。しかし見つからず、今度はもう死んでいるかもしれんと思って、死体を捜すためムシロを積んで来たそうです。 その大八車に、坂町の方の見知らぬ人二人も乗せて、連れて帰ってもらいました。矢野に着いたら昼の三時頃でした。長い一日のように思いました。
それから当分、耳が聞こえにくく、三歳の息子(長男)が背中をさすったり、耳の所で「お母ちゃん、ご飯を食べようや」と言ってくれました。命が助かったのが、今でも不思議です。親の顔を見た時、大声で泣きました。その時私は二九歳でした。
原爆手帳には、(爆心地一・五キロメートル以内)と書かれています。今年、八月一一日で八〇歳になります。生かされた命を大切にし、感謝の気持ちで毎日を過ごしております。子供や孫たちが二度とこのような悲惨な目に遭わないよう願っています。
|