八月六日家の廊下に座っていた。その時稲妻の様な光が頭上を通りすぎ真っ暗になり、やがて明るくなった時、母、祖母、私の三人は、吹きとばされ、床下に落ちていた。
身体中、ガラス片がつきささり切りさかれ、血しぶきが吹き出ていた。母の喉には大きな穴があき、言葉を発する度に、その穴から、赤黒いメンタイコのような物が、たれ下がった。私は泣く事も物を言う事も忘れ黙って、それを見ていた。母は、近くにあった布で私の身体に、その布をさいて、必至に結んでくれた。苦しい息をはき乍ら、一滴の血でも、止めてやりたいと、いうように。その母の手は真っ赤で、ヌルヌルと血で光っていた。「火が廻って来るぞォ。早くにげろ」と叫ぶ声がして、私は誰か男の人の脇にかかえられた。「お母ァちゃーん」始めて私は叫んだ。その人は、私を抱いて、ガレキの上を電車道へ向った。母と祖母が、ガレキの向うに見えなくなってゆく。母が真赤な手をかすかに振るのが見えた。それが、母と私の最後の別れでした。
電車道は、黒こげの人が皮フをぶらさげて、血でぬりつぶされた身体でハダシで、唯、だまって逃げていた。不思儀と静かだった。
川土手で、真っ赤にもえさかる空を見乍ら一夜を明かした。まわりに、中学生らしい黒い人形の様な人達がたくさんころがっていた。「お母さん」「お水を下さい」「熱いよう」その声もだんだん小さくなり、やがて息絶えていった。淋しくも恐くもなかった。みんな人の形をした感情のない塊でしかなかった。傷だらけの身体が痛みを感じたのは、三日位たって、収容所で血のりのついた布を傷口から、はがされた時だった。思いっきり泣いた。そして、そのまま意識を失った。気がついた時は戦争は終っていた。
でも、その日から私の苦しみは始った。身体中につきささった硝子の破片、傷口をはい廻る、うじ虫。そして、毎日、母を呼び子供の名を呼び乍ら死んでゆく、まわりの人達。そんな収容所での苦しい日々。板の上に寝かされて、私は、母との最後の別れの記憶だけは頭の中に毎夜鮮明に浮かんできた。夜空の美しい星を眺め乍ら、幼い私は、母を思い出し毎夜静かに泣いていた。
あれから五十年。両親や兄を原爆で失い、自分は学徒動員に行っていて一人生き残った主人は思い出すのが、つらいのか決して、あの日の事は語らない。私も思い出したくなかった。でも、いい古された言葉だけれども、戦争が、どんなに悲惨なものかこんな話が信じられない今の子供達に、どうしても、知って欲しい。そして、この平和が、いつ迄も続く事を祈り乍らペンをとりました。
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