国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
信頼 山本朗回想録 
山本 朗(やまもと あきら) 
性別 男性  被爆時年齢 26歳 
被爆地(被爆区分) 広島  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●被爆直後

本社が全焼 発行に苦闘

昭和20(1945)年8月6日の原爆投下によって広島市は灰じんに帰した。死傷者は二十数万人と推定された。爆心地から約900メートルの上流川町(中区胡町)の中国新聞社は、(輪転機2台をはじめ)機械設備をすべて焼きつくした。社員の死亡は100人を超えた。こういう事実は後にいろんな情報を総合してやっと判明したことで当時は手探りであった。

社長である父、山本実一は市郊外の府中町に疎開していた。広島の惨状と本社の焼失が、三々五々集ってきた社員の口々から分かってきた。一番先に考えたことは、中国新聞の発行をどう継続するか、社員並びに家族の安否をどう確認するかであった。
 
それと心の奥底に引っかかったのが兄利の安否であった。兄は6日朝には府中町宅へ帰るはずであった。何とか生存を確認したいとする親心は当然であろう。そしてついに兄の確認はいまだに不可能なままなのである。


【実一社長の長男で編集局長だった山本利氏は1945年3月、再び召集され広島師団司令部報道班へ配属された。29歳だった】


新聞発行の継続と言っても本社が焼失した以上、自力で印刷するわけにはゆかぬ。そこで戦時中の新聞相互援助契約によって朝日、毎日、それに島根新聞(山陰中央新報)に代行印刷を依頼することにした。

命を受けた内田一郎(当時、編集局次長)、糸川成辰(調査部長)、沼田利平(厳島支局長)の3人は市内の連絡が途絶していたため苦心惨憺の末、宇品の陸軍船舶司令部から無電連絡を行った。夜9時半だったという。中国新聞の題字を冠した代行印刷紙が届いたのは9日付からだった。


【政府の「新聞非常措置」で1945年4月21日付から広島県内は中国新聞だけが出ていた。代替紙は朝日、毎日新聞の大阪、西部両本社から20万部、島根新聞は8月11日から1万部が届く(「広島市空爆直後ニ於ケル措置大要」など)】


幸運であったことは輪転機を1台、市近郊の温品村(東区)の川手牧場に疎開させていた。社員のみにより解体し、馬車で運び、据え付けが完了したのが8月2日であった。その他必要資材も一応準備された。

中国新聞を自分たちの手で発行したいという思いは全社員みな同じであった。何とか働ける社員は温品村に集結した。天幕の3張りの中か、(牛舎を使った)工場の片隅で寝た。いろんな苦難の末に9月3日付から「温品版」を発行したのである。

本社の総務、業務、編集の一部は、松田重次郎社長の好意により(府中町の)東洋工業(マツダ)医務室を提供してもらい、8月25日移っていた。私は復員翌日の9月3日から事務所に出勤し、温品工場にも顔を出した。12日付で次のような辞令がでた。

命総務局長事務取扱 理事 山本朗

私は当時26歳になったばかりの青二才であったが、以後は好むと好まざるとにかかわらず、社の中枢に位置して、あらゆる問題と対決せざるをえなくなった。いつも全力投球し続けたつもりである。新任の総務局長の業務に追いまくられた。人手不足の上に何とか働いている人も家族の死傷、あるいは家屋の焼失その他何かを背負っていた。温品工場は輪転機の不調や資材の不足で悩まされ、作業は限界に近づきつつあった。

●再建の一歩

台風猛威 輪転機を戻す

昭和20(1945)年9月半ばは大雨の連続だった。ついに17日夜半には暴風を伴って猛威を振るった。枕崎台風である。温品村(広島市東区)の川手牧場前の川(現府中大川)も増水して、輪転機の足元までえぐった。当分、「温品版」は出せない。どうするか。

私は村上哲夫氏(主筆)と、太宰博邦県警察部特高課長(後に厚生省次官)に会った。水害の実情を話して、再び代行印刷をしてほしいと協力を申し入れた。課長は承認したが、いつまで(戦時中の)新聞相互援助契約を頼りにするのか、早く自立の体制を立てろと厳しかった。もっともなことだと思った。


【温品村での9月3日付からの自力印刷は18日付で終わる。以降は朝日、毎日新聞両本社が印刷した「中国新聞」の題字入り紙面を受ける。枕崎台風で県内の死者は2012人に上るなど甚大な被害を受けた(「広島県砂防災害史」)】


川手牧場は輪転機の疎開置き場として選定されたが、交通不便な地に執着したら復興に立ち遅れてしまう。早く上流川町中区胡町の本社に帰ろう。そのためには社屋の残留放射能の調査が急務だ。(原爆災害の調査に入った医学者で)東京帝大都築正男教授の意見を求め、広島文理科大に強度検査を依頼した。いずれもOKを得た。
 
「さあ、本社へ帰ろう」。それを合言葉にみんな奮い立った。まず本社の清掃である。中国復興財団に依頼し、21日から100人、26日までかかった。床上に何センチもの灰が積もっていたから大変だった。また中国ビル4階を臨時の社員寮として被災社員に提供した。
 
20日からは(ガリ版で刷った)本業のニュース時報の貼り出しを(鉄道沿線の各駅で)毎日行った。問題は輪転機の解体と運搬である。22日に東洋工業(マツダ)の技師に視察してもらい、翌日から解体作業に取りかかった。
 
一段落したところで30日、一番気にかかっていた物故社員の慰霊祭を本社3階で営んだ。焼け跡も生々しい壁に白黒のまん幕を張り、形ばかりの祭壇を設け、僧侶3人が読経した。鬼気迫るような慰霊祭だった。しかし、故人も遺族も関係者も心に染みたのではなかったか。私は心から冥福を祈り、これからの復興を固く誓った。

10月1日、本社に引っ越した。社長訓示に続いて私から臨時措置の新編成を発表した。全員を総務部と復興部に分けた。代行印刷を依頼中とはいえ、地元ニュースの取材、送稿をはじめ日々の業務は必要である。これを総務部とし、復興部は本社復帰のための諸準備に専念したのである。

2日、輪転機の馬車による運搬を開始した。(広島デルタの橋も壊れた)水害の後だけに難渋を極めた。8日、幣原喜重郎内閣誕生。「中国特報」として初めて印刷して喜んだが、夕方になり巻き取り紙(新聞印刷紙)が(海田町にあった陸軍需品廠(しょう))倉庫明け渡しのため屋外に放出されたとの報告あり。全員が現場へ行ったが、雨降り。慣れぬ作業に困惑した。


【中国新聞記者だった大佐古一郎氏の「広島昭和二十年」によると、進駐する米軍が倉庫を使うので「巻き取り紙を至急搬出せよ」と中国軍管区司令部から命令があった。荷馬車もトラックもない中、30本を軒下に戻したが百数十本は使用不可能になったという】


●印刷再開

復刊第1号眺め感無量

昭和20(1945)年10月19日から東洋工業(マツダ)技術陣が上流川町(広島市中区胡町)の本社に泊まり込み、温品村(東区)から運ばれた輪転機の組み立てにかかった。私はその進行を心楽しく見て回った。

11月1日、全員が総務、復興の両部配属の臨時措置を廃して、それぞれ原部局に復帰させた。人事発令を終えて夕方、社長室に局長らが集まり、すき焼き懇談会を開いた。いよいよ5日付紙面から、本社員自らの手で印刷した新聞を再び読者に送る見通しが立った。

この復刊第1号にどうしても自分が書いた記事を載せたくて、「あれから三月まだこの姿」という40行ものを写真付きで出稿した。みんなも手分けをして紙面の3分の2を埋めた。写真はまっ黒でハッキリしないが、今でも紙面に接すると、中国新聞社と広島の荒廃ぶりを鮮明に思い出す。
 
4日の夜の輪転工場は戦場さながらの混雑ぶりだった。なかなか順調に行かなかったが、やっと明け方近く白み始めたころ、快調なリズム音が聞こえ始めた。私は傍らに立ちつくして、そのゴウゴウという音を聞きながら、死んだ誰彼の顔を思い出して涙を流した。本社で焼けた2台の輪転機を昭和22(1947)年に日本製鋼所(広島分工場、南区)で修理したが、それまではこの1台が全社員の生命の綱であった。

刷り上がった第1号を持って自転車で府中町の家へ急いだ。「できたか」。紙面をつくづく眺める父の横顔も感慨深げであった。


【11月5日付紙面は、市民の望みは「復興の構想ではなくて寒さに対する家であり、飢えに対する食物の補給」と訴えた。がれきが街中を覆い、市民は5千戸と計画された「戦災住宅」の着工を待ち望んでいた】


6日、府中町の龍仙寺で兄利の葬儀が営まれた(享年29)。遺骨も遺品もなかった。やっと落ち着いたところで心おきなく兄を失った悲しみに浸り切ることができた。私たちは仲のよい兄弟だった。

兄は初めから新聞人になる気だった。東京帝大文学部に入り、小野秀雄先生(新聞学の権威)の薫陶を受けた。経営を継がせる気だが、新聞は公器である。もし不適任なところがあれば遠慮なくお教えいただきたい、と父が手紙を書いた。先生は感銘を受けたのか、後々まで父の手紙を思い出しておられた。兄はよき新聞人であった。(原爆死は)残念であった。私は兄の前にでようと思ったことはなかった。兄がいないのなら仕方がない。継ぐしかないと決心した。

原爆投下、代行印刷、温品版、枕崎台風、再度の代行印刷、本社復帰。

一連の歩みを振り返ると、私は中国新聞が見放されなかったわずかな幸運を思わずにはいられない。疎開工場への輪転機据え付けは原爆投下4日前である。台風で輪転機の足元近くまでが濁水にえぐられた。もうちょっとで万事休すだった。それを契機とした本社復帰。もし台風がなかったら、1カ月半も休刊にして本社へ帰るほどの重大決意が誰にできただろうか。11月からの本社印刷で、その後の新聞の自由競争に遅ればせながら間に合った。
 
広島の「75年不毛説」が言われ、中国新聞再起不能説が業界に流れた。しかしその実はこういう巡り合わせで立ち直った。まさに綱渡りの危うさであった。それだけに人の力の及ばない神のおぼしめしと思わずにはいられない。

出典:中国新聞(平成24年9月25日から10月27日まで全25回連載された「山本朗回想録 信頼」第11回、12回、13回(提供:中国新聞社))

 

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針