国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
被爆体験について 
上田 勝三(うえだ かつみ) 
性別 男性  被爆時年齢 19歳 
被爆地(被爆区分) 広島(間接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 運輸省広島鉄道局 備後十日市駅 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

私は当時国家総動員法に基き現職のまま徴用せられ備後十日市駅(現在の三次駅)に勤務しておりました。昭和二〇年八月六日は、非番日で勤務交代後所用のため午後二時頃まで市内の伯母のところに居り自宅に帰る予定で駅に行ったところ居合せた同僚から広島の空襲で怪我をした人がこれから列車で帰ってくる。そうとうひどくやられている人もいる。とだいたいのことを教えてくれましたのですぐ事務室に入りますと当務駅長より被災者の列車輸送が始まるから救護作業に当るよう指示されました。

午後三時頃広島方面から被災者を乗せた列車が到着し直ちに救護作業に従事しました。救護作業はなかなかはかどらず列車内、ホーム、待合室、駅前仮収容所等で作業に当りました。最初の被爆者を乗せた列車が到着したときは全く予想もしていなかったものすごい情景に目を覆う有様でした。車内の座席にすわったまま動けない人を背負ってホームに出て担架に乗せたりヤケドがひどく体の皮膚がはげて歩くこともおぼつかない人もおられましたがこんな人は肩をかして駅前の仮収容所へ連れて行きました。車内にはすでに死んだかのように体が自由にならずそれらをホームへ出すのが大変な作業でした。

又、ボロボロになった衣服の間からヤケドで皮膚の色が変ったのか泥でよごれたものか判別もつかなくなっている方も相当おられました。このような被災者はヤケドと怪我でとても痛そうでしたが無理に抱きかかえたり背負ったりしてホームに連れ出しました。私は主に車内からホームに被災者を連れ出す役目に回っていました。この救護活動は同僚と一緒に八月九日までこの作業に当り続けました。

列車が到着する度びに救護作業は続きましたがその中で特に記憶に残っているのは次のようなことがあります。ヤケドをした体にボロボロに破れたシャツがくっついて取れずよれよれにぶら下ったままホームまで降りてこられ柱につかまってうずくまってしまい動かなくなりました。死んだかのように見えたので近づいて見ると小さな声で「このシャツをはいでくれ。頼みます。頼みます。」と再三言われたので汁のにじんだ腕をつまみ上げてはぎ取りましたが腕の裏側にはウジが数匹となく這っておりました。また傷口は赤黒く水ぶくれとなり、ウジが動いておりました。再び体に手をかけて、ホームの柱に寝せかけましたが体がぐずついて困っておりますと他の被災者の救護に当っていた同駅の学徒動員の人が担架を持ってきて介護に当り同僚に手伝ってもらって駅前の仮収容所の方に運んで行きました。当日は信号掛として勤務しながら救護に当っていましたので列車の発車時刻が近づいていてこの場所をはなれて信号機の取り扱いをしなければならない状態にあったので困っていたところでしたのでほんとうに助かりました。このことは今でも悲惨な思い出と共に深く印象に残っております。

 

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針