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看護婦生徒としての使命 
上野 照子(うえの てるこ) 
性別 女性  被爆時年齢 15歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2012年 
被爆場所 広島市千田町一丁目([現:広島市中区]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 日本赤十字社広島支部病院救護看護婦養成所 2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●半生を振り返る思い
子どもや孫、将来の子どもたちのために、私は自分の体験を残そうと思います。本当は思い出したくもない、つらく、悲しい体験ですが、六十七年がたっても、あのとき原爆で亡くなられた方々への思いは、消えることはありません。

これまでは、自分の体験を積極的には話してきませんでした。しかし最近になって、あの日同じ場所にいたかもしれない女性と出会ったり、同じ病院で働いていた先生のお孫さんから話を聞かせてほしいと頼まれたりして、自分の体験を後世に残さなければいけないと思うようになりました。今、改めて自分の半生を振り返ろうと思います。
 
●被爆前の生活
私の実家は、佐伯郡砂谷村(現在の広島市佐伯区湯来町)にありました。そこに、両親や兄弟姉妹たちと住んでいました。

私の子どもの頃は、軍国主義の下で教育が行われていました。私も幼心に、国のお役に立つためには、日赤の看護婦になって従軍するしかないと思っていたので、国民学校高等科を卒業したら、日赤の看護婦養成所に入ろうと決めていました。学校の先生や勉強好きな長兄に教えてもらいながら、毎日朝方まで一生懸命に勉強しました。十八倍という難関を突破して、希望に満ちて入学したのは昭和十九年四月のことでした。

入学した日本赤十字社広島支部病院救護看護婦養成所は、千田町一丁目の広島赤十字病院の敷地内にあり、併設の寄宿舎に生徒全員が入りました。養成所での生活は規律が厳しく、廊下で婦長や上級生と出会ったときは三歩手前で止まり十五度のお辞儀が義務、入浴はお湯をほとんど使わず排水溝に近い下座でさっと済ませる、部屋では上級生が寝るまで起きていなければならないなど、まるで軍隊のようでした。毎晩悲しくて家に帰りたいと思ったことも、今では懐かしい思い出の一つです。寄宿舎には食堂がありましたが、戦時中で食糧は十分でなく、ご飯には大豆や鉄道草が入っていて米粒は数えられるくらいしかありませんでした。時々、母や姉が面会のときに実家から持ってきてくれるおむすびやおはぎを、友達も誘って一緒に食べるのが、唯一の楽しみでした。

一年生のときは朝から授業があり、主に基礎医学を学びました。当時の医学用語はすべてドイツ語で、医学も語学も基礎知識がなかったので、勉強についていくのはとても大変でした。午後九時の消灯後は、布団をかぶって懐中電灯の明かりで勉強したり、お手洗いで勉強したこともありました。二年生になると、病院の看護婦が軍に召集され不足していたため、私たち生徒が病院での実務をこなすようになりました。

●被爆時の状況
昭和二十年八月六日も、いつもと変わらない朝でした。発令されていた警戒警報が解除になったので、私は寄宿舎一階の渡り廊下で、患者の朝食を作っていました。当時、病院内では赤痢がはやり、先生や生徒の中にも患者が出ました。そのため、寄宿舎の一部が隔離病棟になり、私はそこの生徒たちに朝食のおかゆなどを作る役目になっていたのです。赤痢患者の使う食器は、感染を防ぐために煮沸消毒して使っていましたので、前日から、中庭に置いてある大きな釜で食器を消毒していました。

食器の様子を見に中庭へ行き、再び渡り廊下に入ったのとほぼ同時だったと思います。ピカッという光と同時に、ドカーンという音。おかしい、こんな時間に照明弾が落ちるわけない、そう思いながらも、とっさに目の前の調理台の下にもぐりこみました。上から物が落ちてきて、何かが崩れる音が聞こえました。音がやむまで、どのくらいたったでしょうか、そっと目を開けてみると、ちょうど雲間から太陽の光が差し込むように、崩れた建物の間から光がスーッと入ってくるのが見えます。逃げ道と判断したのか、「ああこれだ」と思ったところまでは覚えていますが、その先の記憶がなく、次に気がついたときは崩れた寄宿舎の二階の屋根の上に立っていました。光を頼りに、無我夢中で外へはい出したのでしょう。

●病院内の惨状
辺りを見渡すと、寄宿舎は押しつぶされてぺちゃんこになり、その下敷きになった生徒たちが「助けてー、助けてー」と叫んでいる声が聞こえます。しかし、何が起こったのかまったく把握できません。ふと自分の体に触れてみると、着ていた制服はボロボロに破れて、頭には土ぼこりをかぶっていましたが、幸いなことにけがはありませんでした。

これは大変なことになったと感じて、まずは婦長の所へ行かなければと思いました。裸足のまま瓦礫の上を歩き、どのようにたどり着いたのか分かりませんが、婦長室と思われる辺りで「婦長殿」と呼び掛けてみると、崩れた建物の下から物音が聞こえ、「森本さん」と返事がありました。婦長の無事を確認してから「向こうから燃えてきています」と伝えると、「バケツリレーで消火しなさい」と言われました。病院南側の方から、宿舎の玄関に炎が向かってきていたのです。辺りにいた人と一緒に、バケツで消火を始めました。

火が迫ってくる中で、建物の下敷きになった生徒たちがあちこちで助けを求めて叫んでいます。私は、手を借りようと入院患者のいる病棟へ急ぎ、自分で歩ける患者に「生徒が寄宿舎の下敷きになっています。助けてください。火が迫っています」とお願いしました。下敷きから助け出した生徒を中庭の芋畑まで運んで寝かせては、また助けに戻りました。自力で脱出できた生徒もいましたが、木造の寄宿舎は火の回りが早く、重なりあった木材を動かすための道具も無く、崩れた木材に挟まれたまま焼け死んだ生徒もいました。どうしてあげることもできずに、目の前で亡くなった彼女のことを思うと、今でも涙があふれます。

火の勢いは強く、寄宿舎を燃やす火の粉が隣接する病棟にも飛んでいくので、病棟へ延焼しないように、火たたきで火の粉を落とす作業もしました。本館への延焼は免れましたが、寄宿舎を含め木造の建物のほとんどは全焼しました。

当時、私の担当は中央病棟の一階でした。担当する患者が皆避難できたかどうかを確かめようと、病棟を見回ったときのことです。脊椎カリエスで入院していた軍の患者さんの一人が、病室に残ったままでした。その方は、自分で歩くことができず、またギプスベッドという亀の甲の形をした体を固定する器具がなければ、横になることもできません。どうにか避難させてあげなければと思い、私は大きなその男性を背負い、重たいギプスベッドを抱え、病院の正面玄関脇にあったソテツの所まで運び、寝かせてあげました。当時十五歳の私のどこにそんな力があったのか、今でも不思議に思います。翌日、家族の迎えで岡山へ帰られることになり、助けてもらったお礼にと、男性用の下駄とタオル一枚をいただきました。この下駄とタオルは、何もかも焼けて、履くものも拭くものも無い中、とても助かったのを思い出します。まだ二十代後半の方でしたが、残念ながら翌月亡くなられたそうです。

その後、玄関付近で見た光景は、まさに地獄絵図でした。玄関から病院前の電車通りにかけて、治療を求めて病院に来た人々が大勢倒れているのが見渡せるのです。やけどを負って倒れている人から「お水ください、お水ください」と言われますが、当時やけどの症状には絶対に水を飲ませてはいけないと授業で教わっていました。しかし、あんなにも水を欲しがっているのにという気持ちの方が強く、近くの防火用水から水をくみ、皆に少しずつ飲ませてあげました。「おいしい」の一言を最期に、ほとんどがそのまま亡くなりました。何度目かに水をくみに行くと、もう水はくめなくなっていました。防火用水に頭を突っ込んだまま、たくさんの人が亡くなっていたのです。

そのときに見た光景で、赤ちゃんのいる若いお母さんが倒れていた姿も忘れることができません。お母さんはすでに亡くなっているようでしたが、赤ちゃんは一生懸命にお母さんの胸で乳を飲もうとしていました。たくさんの患者を救護しながら、赤ちゃんだけを保護するわけにもいかず、また母親と引き離してしまうと、家族が捜しに来られたときに身元が分からなくなるのではという不安から、どうしてあげることもできませんでした。後から来た救護班の方が助けてくださったのではないかと思っていますが、赤ちゃんがその後どうなったのかは分かりません。今でも時々思い出されます。

そうして、ようやく疲れを感じてソテツの横に座り込んだときには、すでに辺りは薄暗くなっていました。急に空腹を感じて、乾パンをもらって食べました。また、寄宿舎の辺りに住みついていた野鳩が、火災によって焼けたのでしょう、友達と何人かで頂き空腹を満たしました。
 
●翌日からの救護活動
六日の夜は一晩中、患者に水をあげたり、見回ったりして過ごしました。その後は、救護活動の毎日だったという以外に、どこへ寝たのか、何を食べたのか、はっきりとした記憶がありません。

病院に来る人々は、被爆の状況によって、上半身や背中全体、顔全体などみなさまざまな部位をやけどしていました。やけどの状態はひどく、その上広範囲におよび、多くの人が苦しんでいましたが、治療しようにも薬がありません。夏なので、やけどが化膿してすぐにウジがわき、あっという間に大きく成長して、ぐつぐつと嫌な音をたてて傷口をはうのです。恐ろしいことに、生きている人間にウジがわくのです。私たちにできるのは、ウジをとってあげることと、残っていたクレゾールを薄めてウジを洗い落とし、リバノール液に浸したガーゼをかぶせてあげることしかありませんでした。毎日毎日、その繰り返しでした。

火災や倒壊を免れた病棟も、天井や壁は崩れ落ち、窓ガラスは割れて散乱し、病室としてすぐに使うことができませんでした。その後、救護班が到着して、徐々に整理され、空いた所に患者を並べていきました。一人が三十人ほどの患者を受け持ち、寝ている間を歩き回りながら様子を見ました。「看護婦さん」とか「きついよ」と呼ばれるので行ってあげると、すでに亡くなっていることもありました。一晩に七、八人もの人が亡くなりました。

亡くなった人は、担架にのせて近くの空き地に運び、焼け残った木を井桁に組んで火葬しました。頭や胴など大きな部分はなかなか焼けず、手足の指の骨ならかろうじて拾うことができました。亡くなる前に名前や住所が言えた人には、メモを書いてあげていたので、焼け残ったレントゲンの袋に小さな骨を入れ、本館の講堂に作られた安置所の仏壇にお供えしました。後日、親族が捜しに来られたとき、お骨の分かった方は喜ばれ、抱いて帰られる人もいました。

病院の玄関前では、治療を求めて押し寄せた人々が倒れたまま、多くの方が亡くなりました。あちこちに転がったままの遺体は、ショベルカーのような機械で集めてすくっては、トラックの荷台に乗せられてどこかへ運ばれていきました。その遺体の扱いを見るのはつらく、嫌な気持ちがしたことを今でも忘れることができません。暑さで遺体は腐敗し、ハエがたかるので、仕方がなかったと思います。

一週間が経過したころ、入院中に被爆した軍の患者に、体中紫の斑点が見られるようになりました。また呼吸困難になって苦しむ人もいました。息ができず、ベッドに上がったり下りたりしてもがいて、静かになったときには、もう亡くなっているのです。この状況を目の当たりにして、私は朝起きたらまず、手足を見て紫斑が無いかどうか、髪の毛が抜けてないかどうか、歯茎から出血は無いだろうかと、毎日恐怖を感じながら確認していたのを思い出します。

●家族との再会
父が砂谷村から捜しに来てくれたのは、二日目のことでした。私は、パイプから噴き出す水で顔を洗っているときで、父は「生きていたのか」と話し掛けてきました。「無事でよかった」と喜ぶ父に、「私は元気、大丈夫だから」と告げると、父は下の姉を捜しに行くと言って帰りました。

下の姉は、仕事のため、当時は三篠の親戚の家に住んでいました。後で父に聞いた話によると、被爆後、崩れた家の梁に足を挟まれ、動けなくなっていたところを、通りすがりの人に助けてもらい、歩けないためトラックへ乗せてもらって、安佐郡安村(現在の広島市安佐南区)の国民学校へ避難していたそうです。父は何度かその国民学校へも姉を捜しに行きましたが、見付けることができず、一週間後くらいに人づてに聞いて迎えに行きました。歩けない姉を乳母車に乗せて砂谷村の家まで連れて帰り、父が毎日背負って病院に通ったと話していました。その姉も、数年後に原爆の後遺症で亡くなりました。

砂谷村にいた上の姉は、制服がボロボロになり、着替えも無い私に、浴衣や布団の生地を下着やブラウス、もんぺなどに作り変えて持ってきてくれました。原爆に遭うと長く生きることができないという風評もあり、姉は私を心配して「このまま一緒に帰ろう」と言ってくれましたが、私は「患者さんを残したまま帰るわけにはいかない。私はずっとここにいるから。大丈夫よ」と言って病院に残りました。他の生徒も治療のために自宅へ戻ったり、家族が迎えに来たりして、残っている人はわずかでした。しかし、こんなにたくさんの人が目の前で苦しんでいるのだから、看護してあげなければならないという、看護婦生徒としての使命感が、私に残ることを選択させたのです。

●終戦を迎えて
救護活動以外のことはあまり記憶が無いので、ほとんど不眠不休のまま、ずっと活動していたのだと思います。そのような生活が続き、十五日になりました。ラジオ放送を聞くように言われて、終戦を知りました。長兄は戦地に行っていたので、戦争が終わったことへの安心感はありました。しかしそれ以上に、終戦は私にとってショックなことでした。従軍の看護婦になるため必死に勉強して入学し、厳しい生活にも耐えて頑張ってきたのに、救護班に編成され従軍することも決まっていたのに、これで終わったのか。そう思うとショックは大きかったのです。終戦により軍病院の指定は解除され、入院していた軍の患者もほとんどが帰られました。

九月半ば、枕崎台風という大きな台風が広島を襲いました。病院の窓は原爆で壊れていたので、台風の雨で病院内も水浸しになりました。

台風のあとしばらくして、一週間の休暇をもらい、砂谷村の実家へ帰ることができました。初めての休暇でとてもうれしかったのを覚えています。満足にお風呂に入れず、頭にたくさんシラミを付けていた私に、皮膚科の先生が軟膏の薬をくれました。持って帰る荷物は他に無く、十数キロも離れた家まで歩いて帰りました。帰れる喜び、帰りたい一心で、足の痛さは全く感じなかったです。

家に着いても、まずお風呂に入るよう言われ、家には入らせてもらえませんでした。一週間、家族の元でゆっくり過ごし、軟膏のおかげでシラミもすっかりいなくなり、さっぱりした気分でした。病院に戻るときは、途中までは馬車に乗せてもらい、残りの道のりは歩きました。

●看護婦養成所卒業とその後の生活
昭和二十一年三月、看護婦養成所を卒業しました。卒業後は、皆それぞれ、海外からの引き揚げ者の看護や国立病院への勤務などで、進路が分かれました。私はそのまま病院に残り、昭和二十七年に結婚するまで、ずっと外科病棟で働きました。

戦後、外科には、原爆でやけどを負った患者がたくさん来られました。後遺症でやけどの痕がケロイドになった部分を切り取り、体の他の部分から皮膚を移植する手術がたくさん行われ、私も手術や治療に携わりました。

●被爆の影響に対する不安
被爆直後から救護活動していたので、脱毛や出血、紫斑など、被爆後の症状に対して不安がありました。その後も広島にずっと住んでいますが、特に病気になることもなく、現在まで健康でいられることに感謝しています。

しかし、被爆の影響を一番不安に思ったのは、妊娠したときでした。主人も被爆者なので、子どもに影響が出るのではないかと、とても心配しました。三人の子どもは皆元気に育ってくれたことは、何よりもありがたいことです。今では、孫もひ孫もいるので、この先も影響がなければと願っています。

●伝えたいこと
孫が小学生の頃、原爆の話を聞かせてほしいと頼まれたことがありました。このとき少し話したくらいで、これまではあまり被爆体験を話しませんでした。思い出すのは本当につらいことですが、心の中では、原爆で亡くなった方々への思いを忘れたことはありません。被爆後五十年の回忌までは、お寺での供養をずっと続けてきました。原爆の悲惨な状況の中でも、精一杯の看護をすることができたと自負しています。私が現在まで健康で幸せでいられるのも、お世話をした方々のご加護を頂いているからだと信じています。

最近になって、原爆の体験を聞かせてほしいと言われることが増え、やっぱり残さなければいけないと思うようになりました。原爆の悲惨な体験を通して、原爆や核兵器反対の気持ちを伝えることによって、次世代に核を持ち込まない行動につながればと、切に願っています。

 

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