昭和二〇年七月三一日広島日赤病院救護看護婦養成所を修了し従軍手帳を手渡され八月一日一時的に郷里に帰る。八月六日の原爆は免れたが投下時の現象は、閃光、きのこ雲、爆風は四〇キロも離れた山里でも見ることが出来た。
臨時召集で、八月一〇日、再び日赤に行く。広島駅に降りた瞬間、軍都広島は見る形もなく似島、己斐、横川方面が一目に見え点々と半破壊の建造物が残るのみ。瓦礫の山であった。焼焦げた電車が横転し曲りくねったレール。瓦礫の間よりうす煙が立ち、一人、二人と肉親を探される人、我が家の廃家を惜み立ちすくんで居られる悲惨の有様を見ながら線路つたいに、目的地日赤に着いた。
外観は残るも内部はごちゃごちゃ。片づける人、救護に当る人で混雑を極めた。外来に於いてはトラックに満載の半裸体の被災者が次々と運ばれ、処置も赤チンキ、チンク油の処置。薬品も乏しく救援に依りたい。玄関、広間には、毛布一枚敷き何人か並べ寝かせ、うめく人、水、水と呼びつつ息絶えゆく人。病室に於いては一番印象に残った事は全身に紫斑点が出来、苦痛を訴えつつ亡くなられた人。医師も今まで見たことのなき症状で死亡診察の病名のつけ様が判らないと言はれたこともある。
昨日ある人は今日はその人の姿なく次々と死体処置所の日赤の庭に運び四~五人並べては火葬する。終戦後の雨で廃材はしめり油をかけて火葬する。顔や手足の末端は焼け残りうじが盛り上り蝿の黒山で無惨そのものであり、救護者の入浴、トイレ等も仮設のもので不衛生のなか過疲労とで次々と倒れ私が激しい下痢に耐えつ一ヶ月余り救護に当ったが、貧血状態となり遂に帰省命令で、郷里に帰る。
依然と下痢は続き貧血、脱毛、歯間から出血。半年以上も体調に悩んだ。五年後は黄疸、七年後に腸筋炎、次々と病に罹り、今も心臓疾患、白内障も手術寸前の通院。二次放射能に依るものと疑問をもつ。核兵器の初めての広島の犠牲は口や筆で簡単に現すことは出来ないと思う。終始忘れることの出来ないこの核兵器。声を揃えて核兵器廃絶を全世界に叫びたい。声を大にして。書き足りないこと山々ある。五〇年経って今尚はっきりしたものを記しました。
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