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比治山から燃えているヒロシマを見て 
大野 逸美(おおの いつみ) 
性別 男性  被爆時年齢 14歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2009年 
被爆場所 杉原縫製(株)(広島市出汐町[現:広島市南区]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島市第一国民学校 高等科2年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●戦前の生活
私は昭和六年七月二十日段原大畑町に生まれ、広島弁で育った生粋の広島っ子です。自宅は比治山の麓、段原大畑町一番地でしたが、金屋町との境にありましたから町内会は金屋町に属していました。家は典型的な二階建ての裏長屋で、車が入り込めないような小路の奥にあり、段原国民学校の校舎とひっつくような状態で建っていました。小路からは市内電車が通る様子が見え、電車通りをまたぎ南へ下ると比治山神社そばに比治山登り口がありました。比治山は、標高七十メートルの小高い丘で、頂上から市内を一望することができました。近隣に住む子どもたちにとってちょうどよい遊び場で、立入りが許されなかった高射砲陣地や監視塔がある陸軍用地を避けながら、セミ捕りや兵隊ごっこ、陸軍墓地では肝試しをして遊んでいました。夏は麓を流れる京橋川の柳橋から鶴見橋の間で水泳を楽しみました。一方で、明治天皇行幸の際の御便殿や、第二十一代総理大臣加藤友三郎の銅像など、歴史的史跡が設置されている場所でもありました。

被爆時は、第一国民学校高等科二年生で十四歳でした。当時は、学生といっても学業よりも勤労奉仕が優先でした。通学かばんに勉強道具を入れることはなく弁当と汗を拭くタオルを持参し、一週間を「月月火水木金金」と呼んで、日曜、祝日など休みなく当番で作業に従事していました。物資が乏しいため、手縫いの学生服には継ぎ当てを施し、靴はめったに配給されないので、下駄やわらじを履いていました。そのような状況の下、私たちは比治山南側の出汐町にある杉原縫製へ動員され、日々作業を行っていました。工場は木造平屋で、梁がむき出しの簡易な造りでした。動員学徒や女子挺身隊、退役した年配者など約八十名が陸軍で使用するテントを作る作業をしていました。女子工員がずらりと並んだミシンで縫製し、男子生徒は梱包や運搬などの力仕事を主に行っていました。

●被爆時の様子
昭和二十年八月六日月曜日、私は、八時までに工場に到着できるよう七時半頃に自宅を出ました。玄関では父の逸蔵が、タンスなどを大八車に積んで郊外へ運ぶ準備をしていました。六十四歳とは思えないほど元気な父でした。私が「行ってくる」と声を掛けると、「おう、今日も暑いで」と言うので、空を見上げると真っ青に晴れ渡っていました。

工場に到着すると級長の私が点呼を取り、引率教諭に報告し作業の割当てを行っていました。私は学校ではわりと目立つ存在で、その頃からリーダー性が身につき、人前に出たいという性格に変わったように思います。また、思い返せば、この級長としての立場が被爆後の私の行動に影響を与えたと思います。

いつものように各自持ち場につき、作業が始まりました。ミシンで縫製するダダダダッという音が響く中、私は積み上げられたテントに登り一段高い場所から作業の指示をしていました。そこから下へずるずるっと滑り降りた瞬間、パッと光りました。目の前でカメラのマグネシウム(フラッシュ)が光ったようにガラスを通して真っ白くなりましたので、瞬時に目を押さえて伏せました。爆風が吹き抜け、ダーッという何とも言えない地響きがしましたが、一瞬のことで何が何やら全く分かりません。そのままじっとしていると、先ほどまで騒音の中で作業していたと思えないほど、辺りは静まりかえり目を開けても真っ暗です。鼓膜が破れてしまったのか、地獄へ連れてこられたのか、あらぬ妄想が駆け巡りました。気づけば梁がすぐそこにあり、工場の屋根が落ちて建物が倒壊し下敷きになっていることが分かりました。幸いミシン台の近くに伏せていたので、ミシン台が梁を支える形になり、私は助かりました。静寂の中で徐々に声が聞こえざわざわとし始めました。「おおい、大丈夫か」と声を掛けると「大野君」「大野よう」という返事があちこちから聞こえてきました。外からは先生の呼び掛ける声が聞こえます。「ここじゃ、こっちじゃ」と必死に応答しても居場所を伝えることはできません。これは自分で屋根を壊すしかないと梁を伝ってよじ登り、スレートを素手で突き破って最初に脱出しました。すぐに工場に常備してあったとび口を手に取って、屋根を壊しにかかり「誰か、いるか」と声を掛けると「おおい」と返事があり、そこからぞろぞろと皆が出てきました。それからは級友と手分けをして声を掛けながら屋根を壊して回りました。どれだけの時間が過ぎたのか分かりませんが、どうにかみんな避難し終えたように思い、みんなに「状況が分からないので一緒にまとまり、静かにしているように」と指示し、私は引率の先生の所に行きました。先生は大きく開いた傷口からひどく出血した状態で行ったり来たりしていました。私が「先生、どうしたのですか」と聞くと、先生は「学校の状況確認と傷の手当てをしてもらうために学校に行くから、後は頼む」と私に言って立ち去ってしまいました。

私自身も上半身裸で作業していたので、ガラスの破片が刺さった所から流血して、おばけのようでしたが級長としての責任感も手伝い、不安に思いながらも集合の号令を掛けました。姿の見えない生徒もいました。私たちはまだ、原子爆弾が落ちたとは知りませんし、被爆時には警戒警報はすでに解除されていましたから、周囲の大人たちは皆実町のガスタンクが爆発したとうわさをし、皆実町方面へ行かないようにと言っていました。このため、次の空襲に備えて比治山の防空壕へ避難することにし皆に指示しました。そして、学校に皆の避難場所を知らせるため、一人を報告に行かせ、また、帰宅を希望する者は自己判断で帰らせました。

●比治山への避難
残った級友を連れて比治山へ登ると、既に段原地区の住民が多く避難しており、どの防空壕も人であふれていました。いつも遊んでいたので比治山の様子はよく把握しており、空いた防空壕を見付け、皆を避難させることができました。その後、私は市内が一望できる比治山の松原と呼ばれる地点に向かいました。

松原から市街を眺めると視野に入る所すべて、つまり広島市全域が炎上していました。町が燃える黒い煙で、西方の茶臼山や己斐町が見えないほどでした。地上には赤く燃え盛る炎が見え、その上には立ち昇る黒い煙、そして原子雲が空を覆い、私には三段に分かれているように見えました。こんな大惨事を引き起こすとは、一度に数百発もの焼夷弾を落としたのだろうかと思いました。しかも火の手は比治山の麓、的場町、土手町の辺りまで迫ってきていました。この様子ではここに避難していても身動きが取れなくなりますし、東側の段原は、火の手が上がっていませんでしたので皆を帰すこともできると思い、急いで防空壕に戻り「解散、みんな帰ろう、解散」と言いました。すると、倒壊した工場で下敷きになっている「とくちゃん」を助けてほしいという工員がいました。「とくちゃん」は、近所の比治山町に住む二つ上のお姉さんで、私はあだ名で呼んでいました。

自宅が近い同級生と工員が集まり、とくちゃんを助けるために工場へ戻りました。とくちゃんは、私のすぐ後ろで作業していましたが、落ちてきた梁に押し潰されていました。私たちが梁を持ち上げている間に、工員のおじさんやおばさんがとくちゃんを引っ張り出しました。しかし、即死のようで、その悲惨な様子は、遠くからしか見ることができませんでした。私が一番ショックを受けた瞬間でした。

混乱の中で、徐々に恐怖やおびえを感じるようになり、「逃げよう、逃げよう」と言ってまた比治山へ戻りました。すると、級友たちはバラバラになって防空壕にはもういませんでした。その頃には、何百人、何千人という被災者がどんどん、どんどん押し寄せてきていました。路上には避難途中に力尽きた人々がばたばたと倒れています。まさに地獄の行列でした。

被災者が「水を下さい」というので、自宅が近い友達に頼んだり、動員先の工場からテント用の生地を持ってきて包帯にしたり、同級生数名としばらく救護活動を行いました。被災者のうめき声の中で女子生徒から「大野君」と呼ばれたことをかすかに覚えています。ちょうどその日、同級生の女子生徒は、竹屋町辺りに建物疎開に出ていました。引率していた増田勉先生から後から聞いた話によれば被爆した生徒の多くが比治山に避難しました。その話を聞いたとき、あの女子生徒は同級生だったのではないかと思いました。しかし、当時は芋の子を洗うように人があふれていました。

救護活動の最中、「ありがとう、ありがとう」と被災者が声を掛けてくるので、顔を見るとやけどでずるむけの赤鬼のような顔になっていました。その場で息絶えた人もいたと思います。壮絶な状況に、かわいそうだという気持ちよりも、怖い、気持ち悪いという感情がわいてきました。恐れをなした私は「おい、帰ろう、解散、解散」と何度も言って友達とそこで別れたのです。

●家族との再会
比治山神社の方へ下山すると、火の手がそこまで迫っていましたので、方向を変えて段原東浦町を通って段原大畑町の電車通りに下りてきました。人影も無い中を歩いていると自宅も、段原国民学校も燃えているのが見えました。

被爆時、自宅にいた母のツマは、段原国民学校の一階部分は燃えていないのに、二階部分の板壁が燃えているのを見て「おやっ」と不思議に思ったと言っていました。私が燃えている自宅を見たのがお昼前くらいとすれば、燃えるまで二時間余り経過していたと思います。私は、町内の避難場所になっていた安佐郡落合村(現在の広島市安佐北区)の落合国民学校に向かうため、大正橋を渡ることにしました。

大正橋が架かる猿猴川には、川へ逃げた被災者が水面を埋め尽くしていました。既に息絶えた人もいたと思います。川が満潮だったか干潮だったか覚えていませんが、被災者たちはただ流されるばかりで、水量が少なく流れが滞る所では、虫がたかったような感じでだんご状の塊になっていました。大正橋から上流に架かる荒神橋の方まで、ずっと同じような情景が続いていました。私は地獄絵図さながらの状況に思わず目を背けて大正橋を渡りました。その後、愛宕踏切を渡り広島駅の北側にある東練兵場へ出ました。そこで不思議な光景を見ました。汽車の引込線の近くに三々五々積んであった枕木が燃えているのです。その燃え方が一斉にではなく、爆心地に向いた方だけに火が付いていました。なぜこちら側だけ燃えているのだろうか、ここにも焼夷弾が落ちたのだろうかと不思議で、燃えている様子をまじまじと見つめたことを覚えています。

東練兵場を北へ横切り、大内越峠に向かいましたが、同じように避難する人がたくさん歩いていました。途中にある火葬場の周囲にも避難する被災者が多くいました。その中で、道ばたに座り込んでいる白い学生服を着た女の子と目が合いました。すると「大野君」と声を掛けられました。制服の名札を見ると「山本」と書いてある黒い文字部分が、原爆の閃光で焼き抜かれていました。私は誰か分からず同じ学校の一年生かと思い、名前と自宅の場所を尋ねると「矢賀」と答えました。ほかにも「…先生」と言ったことを覚えています。水を欲しがりましたが、手に入る状況ではなかったので、とにかく近くの畑に向かいました。すると避難する人々がトマトやキュウリをちぎっていました。私もキュウリとカボチャを持って、その子が待つ場所へ戻るとその子は既に意識が無く、「おいっ」「山本、山本」と言って肩をたたいてもガックリとしたまま息絶えていたのです。周りにたくさん人はいましたが、皆自分の身を守ることに精一杯でした。後日学校の先生に聞いてみましたが「山本」という生徒は複数いたらしく、結局、誰だったのかいまだに分かりません。

普段は、級長として威張っていた人間が、たった一人の女の子を助けることもできず、水の一杯も与えることができなかったことが本当に残念で、被爆後六十三年たちますが、このことが一番心残りです。

その後私は中山峠を通り、安芸郡戸坂村(現在の広島市東区)にたどり着きました。すると消防署の火の見やぐらの所で私を捜していた母が私に気づき、「逸美」と言って駆け寄ってきました。そのとき私は、我が子とは分からないぐらい真っ黒い顔をしていたそうです。母は、皆が火の見やぐらを目指して逃げてくるので、私も通るだろうと思って待っていたのでした。どうやら家族内で非常の場合は、姉の嫁ぎ先である戸坂村の石津宅で落ち合うように決めていたようで、上柳町で被爆した父も自宅で被爆した姉も逃げてきていました。それが午後二時か三時頃のことでした。

ほかの親戚もたくさん同じ場所に避難していましたので、結局町内の避難場所になっていた落合国民学校へ移動しました。そこで乾パンを受け取り、その晩は紹介してもらった民家の納屋に泊めてもらいました。夜になり蛍が飛ぶ姿を見て姉はおいおいと泣いていました。

姉のナツエは、自宅二階で洗濯物を干そうと外へ出ようとしていたときに爆風を受けたと言っていました。爆風で飛んできたガラス片が刺さり血まみれでしたが、母と一緒に手をつないで逃げたと言っていました。できるだけ荷物を持って逃げようとしたらしいのですが、手に取った物は、葬儀のときに着る衣類と草履、父の下駄など、たわいないものばかりで、それを聞いていかに母と姉が取り乱していたのか分かる思いがしました。

●被爆翌日からの生活
翌七日、父が自転車で、広島市内へ向かいましたが、熱くて立ち入ることができないと言って戻ってきました。翌々日の八日早朝、父に連れられて戸坂村の親戚に寄り、自宅へ向かいました。爆心地から一・五キロメートルほどの我が家も隣接していた段原国民学校もすべて焼失していましたが、電車道を挟んで東側の段原地区の建物は焼け残っていました。私たちは、崩れた家から焼けたトタンや材木を取って帰り、自宅跡にバラック小屋を建てました。幸いにも被災前に庭に作っていた防空壕には、米、みそ、しょうゆや塩などの調味料と一か月ぐらいは生活できる食料を保存していました。バラック小屋を建て、ご飯を炊いて食べたのが、確か八月九日だったと記憶しています。

父と私は、おばの安否を尋ねに舟入町へ向かいましたが、ここも火が回ったようで人影は無く、焼け跡を見て引き返すことにしました。八丁堀、紙屋町、相生橋、左官町、土橋を通って父と二人で二回ほど行き来しました。当時は知る由もありませんでしたが、私たちは被爆直後の爆心地周辺を通過したことになります。十日市町の電車通りでは、被爆した牛の死体が横たわっていました。辛うじて顔と角は分かりましたが、背中一帯が真っ黒焦げで腹がぶわっと三倍ほどに膨れ上がって化け物のようで、父に教えてもらうまで牛と分からないほどでした。九日になると電車通りには、救援に向かう軍のトラックや大八車を引く消防団員など多数の人々が行き交うようになり、護国神社の近くでは救援作業を行う軍人が、リヤカーに真っ黒焦げの死体を積んでいました。比治山や大内越峠で見た被爆者はまだ人間らしい姿をしていましたが、ここで目にした死体は、衣類はほとんど身に付けておらず、顔は腫れあがり、腹はスイカのように膨れ、手足は真っ黒い棒のようになっていました。一番悲惨な人間の姿を目にしたのはこの場所でした。

八月十五日の終戦を迎えると父が仕事で取り扱っていた軍需物資も流通しなくなり、自力で生活を立て直さなければいけませんでした。しかしこれまで取引をしていた農家などからこっそりと牛を買い付けて、一般の人々に行き渡らないような食料も手に入れることができました。今では申しわけないと思いますが、当時の混乱した社会状況の中で生きていくためには、手段を選ぶ余裕はありませんでした。

●原爆症
そのうち、被爆の影響と思われる症状が父と私に出始めました。髪の毛が抜けた姿を見て父がハゲだと笑っていましたが、その後下痢が一か月以上続き、体はやせこけて、明日死ぬかもしれないという状況になりました。しかし、父のおかげで栄養状態が良かったことと、母の懸命な看護が功を奏したのか、回復し何とか生き延びることができました。

当時は原子爆弾の人的影響について知識がありませんでしたので、原爆症などとは考えていませんでした。原爆症を意識し始めたのはむしろ最近のことです。まだ若い頃に両目とも白内障を患い、片目は網膜症になり視力を失ったため、志半ばで仕事を退職しました。加齢による白内障と診断されたことがありましたが、医者に既往歴を伝えると被爆と関連があるかもしれないと言われました。現在原爆症の認定を求めて厚生労働省の審査を受けている最中です。

●アメリカに対する思い
終戦前に米軍が被爆後の広島市を上空から撮影するため、コンソリデーテッドB24という飛行機が飛んでいました。ある日、私は乗務員の顔が見えるぐらい低空飛行しているB24から、米軍将校が小便をしたのを目撃したのです。そのときに私は激しい憤りを感じました。一発の原子爆弾で何十万という子どもや老人を含む非戦闘員を無差別に殺して、笑って小便した米兵を見てから、今でも私はアメリカが嫌いです。仕事でアメリカを訪問したとき、「リメンバー・パールハーバー」という言葉を耳にしたり、原子爆弾が戦争を終わらせたと記されたきのこ雲の形をした記念碑を目にしました。私が広島出身だというのに、わざわざ案内したのです。私には、亡くなった多数の人々に対する罪の意識を全く感じることができず、このときもまた大変な怒りを感じました。平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑には「過ちは繰返しませぬから」という文言が刻まれています。さまざまな解釈があることは理解していますが、私は自戒の念を訴えるものではなく、アメリカに向けてのメッセージだと思っています。

●平和への思い
私が被爆体験を振り返って一番つらかったのは、身近な人々の死でした。私のすぐそばで即死した「とくちゃん」や、水を与えることができず亡くなった女の子のことを思い出すたびに、助けることができなかったという自責の念にさいなまれます。私は身近の人々の死を伝えることで、若い世代に原爆の悲惨さを訴えたいと思っています。イベントなどで大々的に平和の大切さや核兵器廃絶を訴える気持ちも分かりますが、死没者に思いをはせ、静かに頭を垂れ手を合わすのが本来の平和を祈る姿だと思います。

また、私が若い世代に一番伝えたいのは、人間は、戦争というものだけでなく、すべての争いをしてはいけないということです。核兵器の恐ろしさを伝えることよりも、それを扱う人間のあり方が大切で、人間が争うからこそ原爆などの兵器が開発されるのです。主張は人それぞれで あっても、もっと正義感に目を覚まし、人間そのものを見直してほしいと思います。人間は戦争をしてはいけません。もう争いはごめんです。

 

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