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命あること 
赤田 サヨコ(あかだ さよこ) 
性別 女性  被爆時年齢 18歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2011年 
被爆場所 広島電鉄(株)広島駅前停留所(広島市松原町[現:広島市南区松原町]) 
被爆時職業  
被爆時所属 挺身隊 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●被爆前の生活
私の家は、仁保町大河にありました。父は私が二歳の時に亡くなったので、母と姉と私の三人暮らしでした。母は自宅で八百屋をしていましたが、当時は配給制でしたので、店に並べて売るのではなく、隣組の人たちの配給物資を市場へ取りに行っていました。姉は、女学校を卒業してすぐ、大河国民学校の代用教員として働いていました。

私は当時十八歳、安田高等女学校を卒業後、挺身隊として働いていました。女学校を卒業したら、田舎へ帰る生徒以外は皆、挺身隊として陸軍の被服支廠や兵器補給廠などに動員されるのです。私は中国塗料株式会社に動員されていましたが、被爆する一週間くらい前からは千田町三丁目にあった広島国民勤労動員署へ変わりました。また、八月十日からは県庁に勤務することになっていました。
 
●被爆時の状況
八月六日、姉は朝から、高田郡向原町(現在の安芸高田市)に疎開している国民学校の子どもたちの所へ行く予定でした。姉の荷物がたくさんあるので、母に「手伝ってあげなさい」と言われ、行きたくはなかったのですが、仕方なく荷物持ちとして姉について、宇品線の汽車に乗り、広島駅まで姉を見送りに行きました。姉を見送った後、千田町の職場へ向かうため、広島駅前停留所に並んで市内電車を待っているところでした。ふと、左の方から飛行機の音がするので空を見上げると、飛行機が何か白いものを落としたのが見えました。そのまま体の向きを元へ戻した瞬間に、大きな音がして真っ赤な光線を浴び、爆風で飛ばされたのです。しばらく「お母ちゃん助けて、お母ちゃん助けて」と言ってはい回っていましたが、その後、気を失ったようです。

気がついた時、周りには誰もいませんでした。自分の姿を見ると服は焼け、ほとんど何も身につけていませんでした。光線を浴びた左半身は頭から足までひどくやけどしており、焼けただれた皮膚が垂れ下がっていました。垂れ下がった皮膚の先からは、黒い汁がポタリポタリと落ちていて、痛くて苦しかったです。この日は、銘仙の赤い布のもんぺと赤と白の縞模様のブラウスを着ていましたが、背中はブラウスの縞模様がそのまま焼き付いていました。

そのうち女の子が一人、私に「お姉さん、私を連れて帰ってください」と話しかけてきました。家の場所を聞くと、私の家よりもずっと近い尾長町だったので、「私の家よりも尾長の方が近いから、すぐ家に帰りなさい」と言いました。その子も、私と同じようにやけどしてボロボロに傷ついていましたが、名前を聞くこともなく別れました。

逃げようにも、この姿のままでは逃げられません。ヂリヂリになった頭には防空頭巾をかぶり、いつも持ち歩いていた救急袋の中の三角巾や大きな四角い布を出し、痛みを我慢して体に巻きました。足の甲もやけどしていたので、革靴の後ろをつっかけのように折って履きました。そして、牛田町の知り合いの家に行こうと思い歩き始めましたが、皮膚が垂れ下がった両腕は痛くて下ろすことができず、前に突き出して歩くしかありませんでした。
 
●自宅に帰るまで
広島駅の辺りでは、台屋町や京橋町の方から逃げてくる人たちが皆、東練兵場やその奥の山へ向かって歩いていきます。私は牛田を目指して、東練兵場の横の道を通り、線路沿いの道を進みました。途中の踏切のところで、一斗缶に入った油を塗ってもらう人を見かけましたが、私は通り過ぎました。神田川鉄橋では、貨物列車が脱線してひっくり返っていました。さらに饒津神社まで行くと、境内の松の木が燃え、辺りは火の海です。それを見たとたん、急に恐ろしくなり、それより先に行くことができなくなってしまい、仕方なく引き返して家に帰ることにしました。

帰りも線路沿いの道を歩きました。二葉の里にあった第二総軍司令部では、たくさんの馬が転がって死んでいたり、焼けただれた状態で立っていました。道沿いの家々は潰れ、下敷きになっている人でしょうか、「助けて」という声が聞こえます。しかし、私一人ではどうすることもできず、ただ黙々と歩き続けました。自分のことで精一杯、生きるか死ぬかの状況に、悲惨な光景を見ても、恐ろしいという感情は失われていました。動ける人は皆逃げた後なのか、引き返す時には、人に出会うこともほとんどありませんでした。
 
広島駅を過ぎてからは宇品線の線路上を歩き、猿猴川に架かる大洲口宇品線鉄橋から段原に入りました。鉄橋ですから、ただ枕木があるだけで、手すりなどはなく、今から思えば恐ろしいところを渡りました。段原を通り過ぎる時、辺りの家々は潰れてはいましたが火事にはなっておらず、比治山の向こう側が焼けていることは、その時にはまったくわかりませんでした。歩いている人もちらほらとはいましたが、皆私と同じように焼けただれた悲惨な姿でした。
 
被服支廠の辺りまで帰ったとき、大八車に男の子を乗せた家族連れに出会いました。国民学校へ行って治療してもらうと話していましたので、私も近くの大河国民学校へ行くことにしました。学校の門のところには、既にたくさんの人が治療の順番を待っています。私は、兵隊さんにやけどのところへ油を塗ってもらいました。兵隊さんは私に中に入って休むよう言いましたが、中には入らず家に帰りました。もし中へ入って水を飲ませてもらっていたら、張りつめていた気がゆるんで、そのままそこで亡くなっていたかもしれません。

家まで帰りましたが、誰もいませんでした。家は潰れてはいないものの、半壊の状態です。中へ入り、真っ先に蛇口をひねりました。水が出ます。すぐ柄杓に水を一杯くんで一気に飲み干した時、やっと生きた心地がしました。やけどした皮膚から、体中の水分が流れ出ていたので、水が欲しかったのだと思います。柄杓にもう半分水を飲んで、表へ出たところで、私の記憶は途切れています。後から聞いた話では、表で倒れていた私を近所の人が見つけ、「サヨちゃんが戻ってきたよ」と母に知らせてくれたそうです。
 
●避難生活
母はこの日、配給物資を取りに行くため、荒神町の市場へ出かけて被爆したそうです。幸い無傷だった母はすぐに自宅に引き返し、近所の人たちと家のそばにあるお宮の裏山へ避難していました。家の前で私が倒れていると聞いて四、五人で山から下り、私を戸板に乗せてまた山へ避難し、山で二晩過ごした後お宮へ移動したそうです。私は痛い、痛いと泣いていたそうですが記憶になく、意識を取り戻した時には、お宮に寝かされていました。
 
原爆が投下された時、姉は、芸備線の汽車に乗っていて中山トンネルを出たところでした。向原で広島に爆弾が落とされたことを聞いて、翌日自宅へ戻ってきました。それからしばらく、母、姉、私は、近所の人たちと一緒にお宮で過ごしました。
 
姉が勤めていた大河国民学校には陸軍部隊が駐屯しており、救護所となっていました。姉は毎日学校に行って、リバノールや油などを持って帰ってきてくれました。また、兵隊さんがお宮まで治療に来てくれることもありました。焼けただれた皮膚は剥ぎ取らなければウミがたまり、すぐにウジがわいてしまうため、痛みを我慢して皮膚を剥がし、そこへガーゼをかぶせてもらいました。かぶせたガーゼは、次の日には体に張り付いてしまうので、痛くないようにリバノール液の入った洗面器につけて、そーっと剥いでもらいました。やけどの跡がきれいに治ったのは、毎日の治療のおかげだと思います。
 
終戦の日まで私たちはお宮で過ごしました。十五日に家に帰りましたが、私はまだ寝たきりの状態でした。終戦後、アメリカ兵が来るとうわさになりました。女性は見つかれば何をされるかわからないと言われていたので、寝ている私が見つからないように、布か何かをかぶせられていました。実際にアメリカ兵が来たようですが、後ろ姿が見えただけで何をしに来たのかはよくわかりませんでした。
 
●焼け野原になった街
私のやけどがひどかったので、家に帰ってからも治療はしてもらいましたが、寝たきりの生活がしばらく続きました。そのため、訪ねてきた親戚は皆、私は永く生きられないと思っていたようです。ようやく起きて歩けるようになったのは、九月末頃のことでした。

ちょうどその頃、女学校の時に仲の良かった友人がアメリカへ帰ることになり、私が生きていることを聞いて会いに来てくれたのです。一緒に比治山へ上がり広島の街を見て、何もないのでビックリしました。被爆後ずっと寝たきりだったので、焼け野原になってしまったことを初めて知りました。ことばも出ず、ただぼう然として眺めることしかできませんでした。
 
●友人との別れ
近所に、小学校時代からの仲良しの友人がおり、原爆が落とされる日の前夜、私と彼女は一緒に遊びました。丹那橋の上で、私が歌い、彼女が踊り、二時間くらい過ごして帰ったのが別れとなったのです。次の日、彼女も被爆し、やけどして帰ってきてそのまま家で亡くなったと聞きました。私は、歩けるようになってから彼女の家を訪ねました。彼女のお母さんは、「サヨちゃんが来てくれない、サヨちゃんが来てくれない」と私のことばかり言って彼女が亡くなったと話し、あれだけ仲良くしていたのにどうして来てくれなかったのかと私を責めるのです。私もひどいやけどをして動くこともできなかったことを伝えました。

近くに五人の同級生が住んでいましたが、今生きているのは私一人になり、周りの人から「残ったあなたが長生きしないといけないよ」と言われることがあります。
 
●戦後の生活
戦後、体調が回復するのはわりと早かったと思います。動けるようになってから、福屋百貨店へ歌いに行ったことがありました。女学生の頃にも、兵隊さんの慰問のために陸軍病院で歌ったことがあります。歌が上手だと言われ、友人や近所の人に誘われていろいろな所で歌いました。この時、福屋百貨店ではまだ営業は再開されておらず、中もぼろぼろのままでしたが、たくさんのお客さんの前で歌った記憶があります。

また、自宅が八百屋なので、戦後も配給物を取りに行ったり近所に配ったりする手伝いをしました。しばらくして、洋裁学校にも通い始めました。生徒として勉強した後、夜間部の先生として五年ほど学校で教えました。洋裁学校をやめてからも、家で洋裁を教えたり、依頼されて服を縫ったり、しばらくは洋裁を続けていました。母は、店を切盛りしながら女手一つで姉と私を育て、女学校まで行かせたという自負があったためか、私が洋裁で忙しくしている程度では不満に思っていたようです。でも、私を立派に育ててくれた母には感謝していますし、尊敬しています。

結婚したのは昭和三十七年です。主人は、昭和二十年当時、軍人として広島へ来ており、私の家に寝泊まりしていましたので、お互いに知っていました。主人も任務中に大河国民学校で被爆したため、共に被爆者ですが、結婚や子どものことについて悩むことは特にありませんでした。

ひどくやけどしたところも、治療のおかげでかなりきれいに治りました。それでも毎年夏になると、やけどの痕のケロイドになった皮膚が、茶色に焼けてしまいます。左の耳は、やけどによって耳だれを起こしたためか、その頃から聞こえなくなりました。今でも、セミの鳴き声のような音や、空襲警報のような音が聞こえて、ずっと耳鳴りがしています。また、甲状腺機能障害とも診断されています。それでも、私自身としてはずっと元気に暮らしてきたように思います。
 
●当時を振り返って
これまで、被爆した当時の様子を話したことはなく、子どもや孫にも話をしてきませんでした。同級生が集まったときに、ああだったね、と少しだけ話をすることはありましたが、このように当時の体験を振り返ったのは初めてです。

あの日、いつものように家から歩いて千田町の職場へ行っていたとしても、原爆を受けていました。また、十日からの動員先だった水主町の広島県庁にいたならば、そこで亡くなっていたことでしょう。どこにいても、私は被爆したに違いありません。現在まで生きているのが不思議なくらいです。

原爆にあった場所や状況がみな違うので、原爆や平和に対する思いも、人それぞれ違うと思います。あの時の恐ろしい惨状は、いくら若い人に話してもわからないと思っています。私のやけどの痕を見た孫に「これどうしたの?」と聞かれても、「ネズミがかじったの」と答えています。

私は今、主人と一緒に幸せに暮らしています。そのことに感謝しています。

 

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