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感謝の気持ちを忘れない 
赤田 秀雄(あかだ ひでお) 
性別 男性  被爆時年齢 27歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2011年 
被爆場所 大河国民学校(広島市旭町[現:広島市南区旭一丁目]) 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 大本営陸軍部船舶司令部船舶砲兵団船舶砲兵第1連隊(暁第2953部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆前の状況
当時、私は陸軍の船舶砲兵第一連隊(暁第二九五三部隊)の宇品派遣班に所属していました。仁保町大河の岩野さんというお宅に寝泊まりしながら、大河国民学校で、経理士官の教育をしていました。

軍隊に入る前は神戸に住んでいましたが、すでに父母は亡くなっており、二人の姉も結婚し、私は貿易商をしていました。私の入隊後、神戸の自宅は空き家となっていましたが、空襲で焼かれ何も残っていません。
 
●被爆状況と救護活動
八月六日の朝は、いつも通り岩野さん宅を出て、大河国民学校へ行きました。学校に着いて朝食を食べ終え、二階の廊下を歩いていた時です。原爆が落とされた瞬間、ものすごい光と音、爆風を感じました。私は、その時ちょうど柱の陰にいて、奇跡的に無傷でした。しかし、学校の窓ガラスは吹き飛び、建物も損害を受けました。爆風で吹き飛ばされ二階から落ちて亡くなった兵隊もいました。

しばらくすると、被災した人々が、次々と学校へ避難して来ました。皆、体中にやけどを負い、口々に「水をくれ。水をくれ」と訴えます。そして多くの人はそのまま亡くなっていきました。校門北口のところには、遺体が山のように積み重なっていました。校庭に火葬するための穴を掘りましたが、穴のそばで被災者に水を与えると、力尽きてそのまま穴の中へ転がり落ちる、そんなことの繰り返しでした。遺体はどんどん山積みとなり、最後には、いっぱいになった穴の中へ遺体を押し込むようにせざるを得ませんでした。

部隊では、医薬品などの物資を、楠那にある倉庫に保管していました。倉庫から、赤チンやリバノール、油などをあるだけ持ってきて、被災者の治療に使いました。ほとんどがやけどの患者なので油が良いだろうということで、油やバターを塗ってあげました。次から次へと患者が来て、何百人治療したかはわかりません。

現在は展示されていないようですが、私が被災者の傷口を縫っているところを写した写真が、以前、広島平和記念資料館に展示されていたことがあったように記憶していますが、定かではありません。
 
●被爆後の町の惨状
原爆投下の翌日、私は一人で市内の様子を確認するため、市の中心部に入りました。

現在の平和記念公園がある辺りまで行きましたが、市内はすっかり焼野原になっており、中心部にいた部隊は全滅でした。途中の道には、多くの遺体が手つかずの状態で横たわっていました。生きている人たちも虫の息で、全身やけどのため皮膚はベロベロに垂れ下がっていました。みんな「水をください。水をください」と訴えるばかりです。また、帰る途中、今の県立広島病院の前を通り、そこでも多くの遺体を道路側の土手に埋めたことを鮮明に覚えています。それ以外、記憶に残っていません。その時の悲惨な状況は、とても言葉では言い表せません。
 
●岩野家の人々
お世話になっていた岩野家は、ご主人を被爆前に亡くし、母と娘二人の三人家族でした。長女は大河国民学校で代用教員をしており、次女・岩野サヨコは、挺身隊として働きに出ていました。

原爆が落とされた時、奥さん(サヨコの母)は、荒神町で被爆しましたが、無傷で助かりました。長女はその時、広島駅から芸備線に乗り、ちょうど中山トンネルを出たところだったそうです。次女は、広島駅前停留所で市内電車を待っている時に被爆し、全身にやけどを負い、当日中に帰って来ました。

被爆の翌日、長女が私を訪ねて大河国民学校に来て、次女がやけどしたことを知りました。私は、治療をするためのリバノールや油、バターを長女に渡し、時々、治療状況を見るため行きました。そのかいあってか、次女の体に残る痕は、やけどのひどさに比べると軽くすんだようです。次女は、今私の妻となっています。
 
●その後の生活
終戦後も、そのまま大河国民学校での救護活動は続きました。私は結局、学校が救護所としての役割を解かれる十月五日まで残り、その後本籍地の岡山県に帰りました。その後、神戸の事務所の事が気にかかり行ってみましたが、跡形もなく爆破されていました。多くの従業員の住所を探しましたが、二名しかわかりませんでした。

被爆後は、髪や歯も抜け、目も次第に見えなくなり、十九年前には、脳梗塞と狭心症を併発し、現在診療を続けています。現在の担当医の先生に診療していただいていなかったら現状維持は難しかったと思います。また、左目は完全に失明し、一昨年は右目の手術を受けました。これらが被爆の影響によるものかどうか、私にはわかりません。被爆直後に診察した医師もすでに他界し、病院に行っても被爆との関連は「証明できない」と言われました。

●感謝の気持ち
振り返って見ると、私は、本当に運に恵まれていたと思います。戦争中、乗っていた船が沈没し、七人でブイにぶら下がり七時間半も海を漂ったことがありました。他の人が順番に死んでいく中、私だけ最後まで生き残りました。原爆に遭った時も、柱の陰にいたおかげで、無傷で助かっています。

だから私は、常に感謝の気持ちを忘れないようにしています。人は、感謝の気持ちを忘れたらだめだと、いつも考えています。自分があって相手もあり、相手があって自分もある、人が誰にも関わらず一人で生きていくことはできません。だから、自分のことだけではなく相手のことを考えるということが、一番大切なことだと思います。

私は、今の時代も決して平和ではないと思います。戦争はなくても、人と人との関係の中で生きていくために、戦争をしているようなものです。

私自身のことをいうと、妻と周囲の人々(県立広島病院の先生と看護師さん)のおかげだと日々感謝しております。毎日がとても心穏やかに過ごせ、常に平和であると感じることができます。現在九十四歳で今なお健在で生きている事に、私の心の中は、いつも妻への感謝の気持ちでいっぱいです。 

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