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被爆体験について 
大畑 静子(おおはた しずこ) 
性別 女性  被爆時年齢 15歳 
被爆地(被爆区分) 広島(間接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

私達は戦時学徒動員体制の中で授業も夏休みもなくそれぞれの活動に入ってゐました。昭和二〇年八月六日、広島に原爆が落されました。丁度八月六日私達一一五名は三年生呉工廠広島工場へ動員のため出発。三次駅で広島に原爆が落された事を知りました。駅で待ってゐると窓がらすは、メチャメチャにこわれ焼けすすけた様な汽車が帰って来ました。よほど大きな空襲が有ったんだなと思いその汽車に乗って帰って来ました。

明る日七日救護活動に入りました。学校は第二陸軍病院の東城分院(講堂、教室の一部、事務室、調理、便所等使用)が設立されました。東城駅へ被爆者が次々と軍用列車で来られるので先生や生徒で出迎へて東城分院に搬入しました。重症患者は担架のまま下車されるのでそれを受取って運ぶ人やそれぞれ分担し救護に当りました。私は、軽症患者さんに肩をかして歩行の介助をしました。

病室にあてられた講堂の中は、まん中に通路が有るだけでゴザを敷き丸太を並べた様に患者さんを寝かせて有りました。講堂内は熱暑でむんむんしてものすごい悪臭でした。私はウチワで仰いだりハエを追ったり患者さんの傷口のウジを箸で取ったり、ぬれたタオルで顔を冷したり顔や手足をふいてあげたり傷口に白い油グスリをぬったり赤チンをつけたりしました。水をくれ水をくれと云われました。水を呑ませたらいけないよと看護婦さんに云われ呑ませてあげる事は出来ませんでした。

学校には二つの井戸が有りましたがその一つは講堂の近くに有りました。被爆者の方が苦しさのあまり何人かの人が井戸で自殺されましたので水が使えなくなり繃帯など洗濯物は学校の裏の川で洗い河原の石の上で乾かしました。毎日、毎日、何人かの人が亡くなられ霊安室に運び込まれ身にまとってゐた衣類は全部ぬがされて運動場の片隅にドラム缶に湯をわかし煮沸消毒して再利用されるのです。まる裸にされた仏様は本当に可愛そうと私達は前を通るたびに合掌しました。校舎の向ふに見える火葬場から毎日毎日黒い煙が上ってゐたのをおぼえてゐます。あの時の状況が今でも目にうかんで来ます。

平和な今日本当に有難く幸を感じて居ります。

 

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