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体験記を読む
私の見た原爆 
吉山 松夫(よしやま まつお) 
性別 男性  被爆時年齢 16歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 2006年 
被爆場所  
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属 東洋工業㈱ 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
●被爆の状況
あのころ、私の家は、楠木町二丁目にあり、父、母、姉、弟二人の六人家族でした。父・吉山熊次郎は、自宅の近くの萬国製針に勤務していました。母・コユリは広島鉄道病院で、食堂の調理の仕事をしていました。姉・一枝は公務員で、広島中央電話局西分局に勤務していました。上の弟・光昭は三篠国民学校高等科一年生、下の弟・喬は大芝国民学校四年生でした。そして、私は当時十六歳、東洋工業に勤務していました。

昭和二十年八月五日、原爆の落とされる前日、西九軒町に住む伯父が、ろっ骨を折る大けがをしました。伯父の引く大八車と路面電車が衝突したのです。その頃、伯父の家は、建物疎開のため立ち退きを迫られ、八月六日には引っ越す手はずになっていました。伯父がけがをしたことにより、急きょ父と私が伯父の家の引っ越しを手伝うことになったのです。

八月六日の朝、私は、欠勤の連絡のため会社に向かいました。当時は各家庭に電話機なんてありません。そのため、何か連絡がある時には、直接会社まで行かなければなりませんでした。会社に着くとすぐ、同僚に「お前、どうしたんだ。今日は休みだぞ」と言われました。私は、前日の八月五日にも会社を休んでいたため、八月六日が休みになったことを知りませんでした。戦時中は、国民みんなが土曜も日曜も休みなく働いていたので、決まった休みなどもなかったのです。私が「なんだ、そうだったのか。それなら、届けにくるんじゃなかったなあ」と言った、そのとたん、原爆が落ちたのです。

ドーンという大きな音がして、天井からほこりがドサーと落ちてきました。周囲はまったく見えません。しばらくするとほこりがスゥーと収まり、周りが見えるようになったので、すぐに外へ出ました。市内の中心部に、真っ赤な火柱が上がっているのが見えます。みるみる雲が高くのぼっていきます。私は、急いで会社の門を出て、家に向かいました。

急ぎ足で歩いていると、大洲橋の辺りで、市内から逃げてくる人たちに出会いました。その人たちは、みんなやけどをして、皮膚が垂れさがっていました。数え切れないほどの人数です。市外に向かって、ゾロゾロ歩いていました。
 
●救助活動
松原町の辺りまで来ると、家屋が全部倒れて、道路をふさいでいました。しかたなく、瓦の上を歩いて行きました。その時、私は下駄を履いていました。当時は、靴がなかなか手に入りませんでした。靴を履いているのは、軍人かお金持ちの人くらいでした。下駄で瓦の上を歩いていると、憲兵に呼び止められました。まったく無傷の私が、逃げていく人々とは逆に歩いて行くので、目立ったのでしょう。憲兵は「ちょっと待て。この下に生存者がいる。今から掘り出すので、手伝え」と言います。憲兵の命令は絶対で、逆らえば大変なことになります。私は、自分の家族が心配で急いでいたのに、そこで救助活動をするはめになりました。

ショベルカーなんてない時代に、崩れた家を持ち上げることなどできません。まず憲兵が、声の聞こえる辺りの瓦を、ドンドン取り除いていきました。それから私が、どこかから持って来たのこぎりとバールを使って、柱を切っていきました。垂木や柱を何本も切って、人が一人通れるくらいの穴を作っていきました。しばらくすると、三十歳代の女性が、夏なので下着姿で、正座している姿が見えてきました。正座したその背中へ、家の梁が当たって、まったく身動きができないようでした。私たちがその人を助け出したのは、九時過ぎ頃でした。原爆が落ちてから一時間も、その人は正座したままだったのです。

救助活動からやっと開放されて、再び歩き出しました。ほんの十メートルほど歩いたところで、赤ちゃんを見かけました。ちょうど、広島駅前の道路の角にある公衆電話のそばでした。お母さんと思われる若い女性も、赤ちゃんと一緒に倒れていましたが、その女性は、もう亡くなっていました。かわいそうに、死んだお母さんの乳を、赤ちゃんは一生懸命吸っていました。周囲は、けがを負い逃げていく人ばかりでした。死体も、そこらじゅうに転がっていました。そんな中で、赤ちゃんのことを気にかける人は、誰一人いませんでした。みんな、自分のことだけで精一杯でした。しばらく見ていましたが、どうすることもできず、家族のことも心配なので、結局見捨てて行きました。赤ちゃんは、その後どんな運命をたどったことでしょう。

広島駅を過ぎ、常葉橋に向かいました。しかし、広島駅より百メートル余り行った所は、もうすでに火事になっていました。それでも火の中を進もうとしていると、兵隊に「どこへ行くんだ」と制止されました。「楠木町まで帰りたい」と言うと「絶対に行かれない。帰れ」と引き返させられました。

しかたなく広島駅前まで戻ると、今度は、警察官に呼び止められました。警察官に「消火活動を手伝え」と言われました。ちょうどその時、広島駅前郵便局の端の方が燃え始めたのです。時刻は、十時を過ぎた頃だったと思います。

消火活動は、警察官や駅員の人たちが協力して行いました。民間人は私一人だけのようでした。消防自動車はないので、消火には、手押ポンプを使いました。大きなポンプで、ホースを持つ人が四人、ポンプを移動させるのも四人がかりでした。ホースから出る水の勢いはあまり強力ではなく、火のそばまで行かないと水が届きません。すると炎に当てられ、とても熱いのです。防火用水の水を頭からかぶって、火に向かいました。防火用水の水は、夏なので、藻で緑色がかっていました。ジリジリと火の勢いに押され、少しずつ手押しポンプをバックさせます。十一時過ぎ、とうとう郵便局が燃え落ちました。

火は、広島駅にも燃え移りました。もう消火活動してもむだだと判断され、私はやっと解放されました。その時、夕立のような雨が降りました。あとから考えると、それが黒い雨だったのだろうと思います。私はもう疲れ果てていたので、広島駅の裏にある東練兵場へ行って休むことにしました。

東練兵場には、何百人という被災者が避難していました。その中で、私も草の上に横になりました。そばには、貨車を待機させるための引込線がたくさんありました。昔の貨車は木製で、木を腐らせないためにコールタールが塗られていました。しばらくすると、貨車がポロポロポロポロ燃え始めました。私は「貨車が燃えているなあ」と思いましたが、疲れてまったく動く気にはなれませんでした。ところが、その貨車には、油の入ったドラム缶がたくさん積まれていたのです。そして、とうとうドラム缶に火が燃え移り、大爆発が起こりました。ドラム缶は貨車の天井を突き破って、空高く吹き飛びました。広い範囲にわたって、空から炎が降り注ぎました。そのとたん、死にそうなくらいの大けがをした人たちも、みんな走って逃げました。もちろん私も、慌てふためいて逃げました。
 
●自宅方面へ逃げる
夕方、行くあてもなく、二葉山の麓を通り、牛田水源地へ出ました。この辺りの家は燃えていませんでした。夕方五時頃、なんとか自宅へ帰りたいと思い、川岸につないであった船を無断で借りて、対岸へ渡り、楠木町四丁目の崇徳中学校付近の川岸に着きました。しかし、ちょうどその時間、楠木町は大火災となり、道を通り抜けることはできませんでした。そこで再び船に乗り、川を下って楠木町二丁目まで行こうと考えました。しかし、川の中は火災の煙が渦を巻き、呼吸ができなくなりました。「これはダメだ」と思い、引き返しました。

川岸には、百人以上の被災者がいました。すでに日も暮れかかり、その人たちは、別の場所に避難するためゾロゾロと歩き出しました。私は、どこにも行くあてがないので、それについて歩き始めました。

三滝町の竹やぶにたどり着きました。その竹やぶには、とてもひどいやけどをした人たちが大勢いました。服は焼けて裸同然、全身の皮がはがれ、赤身の出た人たちが、笹の上で寝ていました。誰も看病する人はいません。私も、その人たちを見てただ「かわいそうだな」と思うだけで、手を貸すという気持ちは不思議とわいてきませんでした。感覚が麻痺していたのだと思います。

もう日もとっぷりと暮れたころ、三滝町の北隣の新庄町から人がやって来て、元気な人だけを、新庄町の農家に分散して泊めてくれました。私は、その家で晩御飯もごちそうになりました。夜九時頃、高台にあるその家のお風呂に入っていると、窓ガラスが真っ赤に染まっていました。不思議に思い窓を開けると、眼下に広島の街全体が炎に包まれているのが見渡せました。

翌朝、朝御飯もごちそうになり、おむすびを作ってもらい、七時頃、その家を出発しました。楠木町二丁目に行きましたが、すべて燃え尽くされ、自分の家がどこにあったのかも分かりません。自宅の近くに小さな砥石工場があって、石炭がたくさん置いてありました。そこは、七日の朝もボウボウと音をたてて燃えていました。自宅付近では、誰一人として生きた人間には出会えませんでした。

私は母のことが心配なので、広島鉄道病院へ行ってみることにしました。途中、常葉橋のたもとに、七、八人の兵隊が倒れていました。私が橋を渡ろうとした時、死んでいると思った兵隊の一人が、動き始めました。私がじっと見ていると、その人は橋の欄干を持って立ち上がり、すぐにバターンと倒れてしまいました。しばらくすると、再び立ち上がり、またすぐにバターンと倒れました。おそらく、その兵隊は意識もすでにない中で、同じ動作を繰り返していたのだろうと思います。「むごいなあ」という印象が今でも残っています。

その横を通り抜けて、広島駅前に出ました。広島鉄道病院も焼けて、何にもありませんでした。どうしようもないので、また自宅の焼け跡へ戻ることにしました。来た道を戻らずに、駅から電車通りを通って、相生橋を渡ることにしました。それが爆心地近くを通ることになるという認識は、全くありませんでした。まだ原子爆弾ということも分かっていませんでした。相生橋を通る時、川の中にたくさんの馬と人の死体を見ました。

自宅の焼け跡へ戻るまでに、何十体もの死体を見ましたが、もう何の感情も起こらなくなっていました。自宅跡に戻りましたが、田舎に親戚もなく避難できる場所もないので、どうすることもできません。しばらく一人でぼうっとしていると、夕方、近所の女の子が、トボトボと三篠橋上流の鉄橋を歩いて来るのが見えました。その子は、広島女学院高等女学校の生徒で、学徒動員のため東洋工業で働いていました。原爆が落ちた後すぐに工場の門が閉鎖され、宿舎に引き止められたため、七日の午後になって、やっと自分の家に帰ってきたようでした。その子から「私たちの住んでいる地区は、戦災にあった時、安佐郡安村(現在の広島市安佐南区)が避難場所に指定されている」と聞き、二人で安村に行くことにしました。

安村まで歩いて行くと、村役場に被災者の収容先が貼り出してありました。女の子は、そこですぐに家族と会うことができました。私も、そこで父の名前を見つけることができました。父は、正伝寺というお寺に収容されていました。弟二人は、安村の民家へ預けられていました。正伝寺で、やっと父と再会することができました。
 
●父の死
父は、服がすべて焼け、足と上半身にひどいやけどを負っていました。薬をつけてあげたいと思いましたが、どこにもありません。お寺には重傷者ばかりが集められ、本堂に隙間なく並べられていました。けれど、そこには医者も看護婦もいません。私は、なんとか父の側に隙間を見つけて横になりました。夜寝ていると、錯乱状態になった人が、突然「空襲、空襲」と叫んで立ち上がり、バタンと倒れました。それを何度も繰り返していました。八日の日も、そのお寺に泊まりました。

九日の朝、正伝寺の住職から「行くあてのある人はここを出てくれ」と言われました。私は、「出てくれと言われても、ここを出ると住む所も食べる物もないのに」と途方に暮れました。お寺にいる間は、付近の農家の人がおむすびを作って配ってくれました。その時、「横川町の広島市信用組合の前で炊き出しをしている」とのうわさを耳にしました。私は、それが事実かどうか確かめに行くことにしました。

お寺を出て、広島市信用組合前へ行くと、確かに炊き出しが行われていました。「家はないけれど、食べる物だけは何とかなる。父と弟を連れて帰ろう」と考えました。そして、その日は歩き疲れたのでお寺へ戻らず、楠木町の大きな防空壕で野宿しました。
 
十日の朝、正伝寺へ戻る途中、お寺にいた人と出会い、「お父さんは亡くなったよ」と聞かされました。驚いてお寺に戻ると、本当に亡くなっていました。近くで寝ていた人に聞くと、父は夜中に「トイレへ行く」と言って起き、縁側から降りようとして外に転がり落ちて、それでショック死したのだろう、とのことでした。役場の人が来て、遺体を裏山の空き地へ運び、同じ日に亡くなった三体をまとめて焼きました。「あなたのお父さんだから、あなたが火をつけなさい。全部焼けて骨になったら、お父さんの骨だけ拾って帰りなさい」と言われました。私が火をつけて、二人の弟と一緒に、父が白い骨になるまでずっと火の番をしました。骨つぼがないので、役場でのりのつくだ煮の瓶を一つもらい、父の骨を入れました。

被爆後、私が生きている父と過ごせたのはたった一日だけで、結局死に目にも会えませんでした。けれど当時は、遺骨が拾えただけでも幸せな方でした。ただ、父のことで、心残りなことが一つあります。九日の日、やけどをした父の体にはたくさんのウジがわいていました。その時ピンセットなんてなかったけれど、そのウジを一匹でも取ってあげればよかったと、今でも後悔しています。

父の死亡年月日は、昭和二十年八月十日としています。しかし、本当のところは、九日に亡くなったのか十日に亡くなったのか定かではありません。

私は、弟二人を連れ、楠木町の焼け跡に帰りました。そして、近所の大きな防空壕で、寝起きしました。食事は、横川町の広島市信用組合前まで、おむすびを取りに行きました。
 
●母との再会
八月十三日、広島市役所に貼り出されている被災者の収容先の名簿に、母の名前を見つけました。すぐに、収容先の船越国民学校へ行きました。

母は、病院の中で被爆したので、幸いやけどはしていませんでした。しかし、左足のふくらはぎをガラスで大きく切っており、全く歩くことができなくなっていました。被爆してからずっと、治療はされていませんでした。母から「家族はどうか」と聞かれ、私は「みんな元気でいる」とうそをつきました。それを聞いて、母は「帰りたい。家がなくても、帰りたい」と言いました。私は、母を背負って、楠木町に連れて帰ることにしました。鉄道が一部復旧していたので、向洋駅まで歩き、列車に乗って、横川駅で降りました。横川駅からは、また母を背負い、五十メートル進む度に一休みしながら、楠木町まで帰りました。その日から、母も一緒に防空壕で生活しました。

その頃には、近所の人も三、四家族ほど、楠木町の焼け跡に戻って来ていました。みんな、私たちと同じように、防空壕で寝起きし、広島市信用組合前へおむすびを取りに行っていました。
 
●姉の死
八月十四日、市役所の貼り紙で、今度は姉の居場所が判明しました。姉の収容先は、似島でした。すぐに、歩いて宇品港に行きました。すると、そこにはまた貼り紙があって、姉は井口国民学校へ転送と書かれてありました。そこで、似島へは渡らず、井口国民学校へ向かいました。

井口国民学校に着くと、どの教室も被災者でいっぱいでした。一つの教室に、二、三十人くらいが寝かされていました。一部屋ずつ姉を捜してまわりましたが、なかなか見つかりません。姉は、きょうだいでも見分けがつかないくらい、顔が腫れ上がっていました。私は、たぶんこの人だろうと思う人に、「あんた、姉さんかい?」と問いかけました。すると、目を開けて「ああ、あんた来てくれたの。みんな元気?」と、姉が返事をしてくれました。姉は、意識ははっきりしているようでしたが、左足が骨折でぶらぶらでした。私は、この時も「みんな元気でいるよ」と、うそをつきました。姉は、「帰りたい、帰りたい」と言いましたが、ここから楠木町まで姉を背負って帰ることは不可能です。私は、姉に「今夜一晩我慢してくれ」と言って、帰りました。

楠木町へ戻ると、姉を運ぶための荷車作りに取りかかりました。昔の乳母車は、鉄製だったので、火事でゴムのタイヤは焼けても、車輪やほかの部分は焼け残っていました。私は、焼け跡に転がっている乳母車を拾って来て、黒焦げの板を針金でくくり付けました。

翌朝、私は、乳母車をゴトンゴトン押して、姉を迎えに行きました。すると姉はすでに亡くなっていました。

私は、姉に対して、今でもとても後悔していることがあります。十四日の日に、姉と一緒にいたのは一時間くらいでしたが、姉はしきりに「水を飲みたい」と言いました。学校なので、教室から外へ出れば、水飲み場がありました。すると、隣にいたおばさんが、「あんた、水を飲ませたらダメよ。すぐ死んでしまうよ」と、私に言いました。私は、「そうか、水を飲んだら死ぬのか」と思い、姉に「我慢しろ」と言い、水を飲ませませんでした。そして、あくる日迎えに行くと、姉は亡くなっていたのです。あの時、なぜ水を飲ませてあげなかったのだろうと、とても後悔しました。けれど、もしあの時水を飲ませて姉が亡くなっていたら、それはそれで、私は後悔しただろうと思います。「同じ死ぬのなら、なぜあんなに欲しがった最後の水を飲ませてあげなかったのか」と苦しむのも、「自分が水を飲ませたせいで、姉は死んだ」と苦しむのも、どちらもつらいものです。けれど、同じように後悔をするのなら、飲ませてあげた方が良かったと思います。今でも、仏壇を拝む時とお墓参りの時には、必ず水をお供えします。

姉の死亡年月日は、昭和二十年八月十五日にしています。これも、本当のところは、十四日に亡くなったのか十五日に亡くなったのか定かではありません。

姉の遺体は、井口の海岸で焼きました。役場の人が、遺体を運んでくれて、私に「自分で火をつけて、骨になったら持って帰りなさい」と言いました。その時、渡されたのは、やはりのりのつくだ煮の瓶でした。一人で姉を焼いて、瓶へ骨を入れて帰りました。

家族は亡くなっても、骨を拾うことができたことは、あの当時のことを考えると、幸せなことでした。その当時の広島には、家族の骨さえ見つからないという人が、大勢いました。勝手な想像ですが、私が奇跡的な確率で生き延びることができたのは、そういう家族の最後を看取るためだったと思っています。
 
●被爆前のこと
原爆が落とされる前の年のことです。私は、宇品町の暁部隊に、軍属として勤務しておりました。部隊のほとんどがフィリピンへ移動することになり、私も移動を希望しましたが、残務整理のため残されました。その時、フィリピンに移動していった者は、みんな亡くなりました。その後も、私は部隊内で勤務していましたが、ある日、将校に呼ばれ、外泊証と芝居の入場券と、もう一つ、民間人の持つ証を渡されました。民間人の持つ証というのは、民間の会社へ勤務する時に必要なものでした。つまり、将校は、もう軍隊へ戻って来なくていいと、言葉に出さず私たちに伝えたのです。その時呼ばれた三名は、私と同じ十五歳の少年ばかりでした。その将校は、私たちのような子どもが、負けると分かっている戦争の犠牲になるべきではないと、考えたのでしょう。そうして、原爆が落とされる一年前に、私は軍隊を離れ、東洋工業へ勤め始めたのでした。この時も、私は、不思議な巡り合わせで、命を助けられました。
 
●原爆症について
防空壕の生活は、終戦後もしばらくの間続きました。皆実町に住む伯父の家にお世話になったのは、十月頃のことでした。その頃から、私は、今でいう原爆症、その当時は原爆症という言葉は知りませんでしたが、原因不明の病気にかかりました。高熱が続き、何日間も意識不明の状態が続きました。私は、大八車へ乗せられ、広島赤十字病院へ連れて行かれました。しかし、病院でも原因不明と言われ、治療はしてもらえませんでした。そのうちに、毎日、真っ黒い便が出るようになりました。ほとんど食事もしていないのに、コールタールのようなネバネバした黒い便が出ました。十一月頃には、黄疸になり、顔も目も真っ黄色になりました。体がとてもだるく、極度の疲労感が続きました。
 
●生活再建
皆実町の伯父は、戦時中、広島陸軍被服支廠の中で散髪屋を開いていました。その伯父が、戦争が終わり、被服支廠にあった軍服や毛布をたくさん持ち帰りました。それを、母と私がリュックへ詰めて、遠くまで食べ物と交換しに行きました。遠方へ行くほど、良い物と交換してもらえました。広島市近郊の農家には多くの人が行くので、私たちが行っても、あまり相手にしてもらえませんでした。そういう農家では、当時「尺祝い」というのをやっていたそうです。それは、百円札が一尺(約三十センチ)たまったお祝い事を指します。当時の百円は、今の一万円以上の価値がありました。

伯父が被服支廠から持ち帰った物の中に、酢酸がありました。酢酸は、布を柔らかくするために使う工業用の薬品です。もちろん食用ではありません。その酢酸を百倍くらいに薄めると、酢と同じ味がしました。その薄めた酢酸を「酢だ」と言って農家に持って行くと、快く食料と交換してもらえました。当時、それだけ酢は手に入らない貴重品でした。
 
●住みかを捜す
十月末に、皆実町の伯父の家を出て、宇品町に移り住みました。当時、宇品町に大和紡績という大きな会社がありました。終戦になり、徴用で集められ働かされていた人たちがそれぞれの故郷へ帰って行き、社宅が空き家になっていました。その社宅へ、原爆で家を焼かれ、住む所がなく防空壕で暮らしているような人たちが、無断で入り込んだのです。私たちもうわさを聞き、その社宅で、十二月まで暮らしました。

社宅の前には、陸軍の兵舎がありました。兵舎の中には、軍隊の物資がたくさん積まれていました。社宅に住む人たちは、その中に入って、必要な物をとって来るようになりました。一番初めにとったのは、毛布でした。私も「うちの家族は何人だから、何枚いる」と数えて持ち返りました。子どもだったので、欲がありませんでした。今考えると、たくさん持ち帰れば、田舎へ持って行って、食料と交換ができたのにと思います。その次にとったのが、軍隊で使う茶わんです。陶製で、白地に青い星のマークがついていました。それも、家族の人数分持ち帰りました。そうして兵舎の物をみんなとり尽くすと、誰かが、今度は窓枠を外し始めました。そして、どんどんエスカレートしていき、とうとう柱へロープを掛けて、兵舎を引き倒してしまいました。

私のもう一人の叔父も、家が焼けて、同じ社宅へ住んでいました。その叔父も散髪屋だったので、バラックを建ててお店を開かないと、収入がありません。叔父に「手伝ってくれ」と言われ、バラックを建てるための材料を、兵舎からとって来ては、社宅の縁の下へ隠しました。その手伝いをしている時に、ふと「私も、この社宅を出たら、行く所はないんだ。そうだ、私も、バラックを建てよう」と思いつきました。私は、「家を建てるのに柱が何本いるだろう。垂木に、座板に、窓枠に…」と全部持ち帰り、縁の下へ隠しました。しばらく後に、軍の方から「とった者は返しなさい」という命令が出ましたが、だれも返す人はいませんでした。

十二月末に社宅を出て、楠木町二丁目の自宅の焼け跡へ戻りました。そして、自分でバラックを建てました。もちろん壁はありません。壁土などの材料もありませんでした。その代わり、焼け跡にはたくさんのトタン板が転がっていたので、たくさん集めて、屋根や壁にも使いました。まるでブリキ小屋のようでした。その家で、終戦後の二年間を過ごしました。

夜寝ていると、家の中から、月も星も見えました。トタン板も真っ平らなものではないので、隙間風がピューピュー入ってきました。ストーブなんてあるはずもありません。それでも、自分の家だと思ったら、満足して住んでいました。その当時は、日本中のみんながそういう境遇でした。
 
●戦後の仕事
昭和二十年の十月頃には、宇品へ進駐軍が大勢入ってきました。当時の日本では、アメリカ人は鬼畜だから、日本人は捕まえられて殺されたりすると信じられていました。アメリカ兵が町を歩くと、みんな玄関も窓も閉めて、家の中に隠れ、ビクビクしながら外をのぞき見ていました。

終戦後、弾薬捨てという仕事をしたことがあります。戦時中、日本軍が山へ横穴を掘ってたくさんの弾薬を隠していました。戦争が終わり、その弾薬を海に投棄したのです。進駐軍が雇ってくれました。とても危険でつらい仕事ですが、一日働けば現金で十円もらえました。当時、十円あれば、ヤミ市で牛肉が百匁(約三七五グラム)買えました。桟橋から、弾薬を機帆船へ積んで、似島と金輪島の間の海に捨てました。今でも海の底をさらえば、たくさんの弾が見つかるのではないでしょうか。

弾薬捨ての仕事は、短期間で終わりました。次にやったのは、港湾労働者の仕事です。焼け野原の広島市が復興していく中、宇品港では多くの材木の陸揚げがされていました。その材木を運ぶ仕事です。中には、まだ十八歳くらいの若い女の子たちもいました。その子たちは、幼い頃からこの仕事についているので、体が頑丈にできていて、鼻歌を歌いながら、重い材木を運んでいました。私は、肩当てにする小さい座布団を母に縫ってもらいましたが、重い材木が肩へめりこむようでした。男女の区別なく、大人も子どもも、全く同じ本数の材木を担がなければなりませんでした。材木は船で運ばれてくるので、船底の方に積まれた材木は、上の方に積まれた材木の二倍くらいの重さがありました。

終戦後は、本当に苦労の連続でした。弟二人はまだ小さかったので、私が父の代わりとして、頑張らねばなりませんでした。ようやく落ち着いて、まともな家に住めるようになった時は、原爆から八年の月日が流れていました。
 
●戦争について
「もう半年でも三か月でもいいから、戦争が早く終わってくれていたら」と考えることがあります。広島が、長崎が、沖縄が、あんなことになる前に、なぜ日本は敗戦を認めることができなかったのでしょう。まったく勝つ見込みがない戦争を、なぜ続行したのでしょう。私の同級生は、多くの人が特攻隊で亡くなっています。私の家族も、原爆で、父が四十三歳、姉が二十歳で亡くなりました。原爆のせいかどうかは分かりませんが、二人の弟も、被爆後、三十六歳と四十八歳の若さで亡くなっています。

戦争だけは、絶対にしてはいけません。戦争ほどむごいものはありません。今、北朝鮮のニュースを聞くと、また同じ事が繰り返されるのではないかと心配です。原爆の直後の悲惨さは、本当にこの世のものではありませんでした。人が道端で死んでいても見向きもしない、そんな心理状態になってしまうのです。平和な世の中なら、ちょっと気分が悪くなって道にしゃがんだだけでも、だれかが手を差し伸べてくれるでしょう。普通の人間の心を失わせてしまう、それが戦争なのです。 

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