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被爆体験について 
大町 多千代(おおまち たちよ) 
性別 女性  被爆時年齢 12歳 
被爆地(被爆区分) 長崎(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 長崎市(本原町)[現:長崎市]-防空壕 
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

私の家は、坂本町。母と一才の妹は、即死。父は全身やけどで三日目に死にました。祖母と、妹二人が疎開している本原町に、八月八日、夕方から、姉と二人で、とまりに行きました。翌日、あまりにも、飛行機の音がするので、横穴に、一人の妹を、おぶって入ったとたんに、ピカット光が入って来て地響がし、ものすごい音がしてとにかく、耳が痛くて、コマクがどうにかなったかと、思ふほどの音でした。何がおこったのかわからなく、そこへ、姉が入って来て、顔、手、足、など、火傷で皮がドロドロにむけて、また、洋服などボロボロでした。私は、手で、顔を、おおいながら、ただただ泣き出しました。姉は、自分がひどい火傷をしているのに、私に、外には出るなと云いのこして、とび出して、祖母と、妹を、助け出して来ました。姉は、まだ一五才でした。夜になって、防空壕の中は、火傷した人達で、いっぱいでした。疎開先の叔母さんは、田んぼの草取りに行ってやられました。ピカット来た時には、田の水が熱くて、田んぼの中を、転がり回ったそうです。やはり、全身火傷で翌日の朝、死にました。被爆した人達は、次々と、タンカで線路へ運ばれて、諫早の海軍病院へ入りました。私の姉も、九月四日に、その病院で死にました。本当に、悲しいことばかりでした。夜になると、男の人が子供達の名前を呼びながら、気が狂ったように、泣きわめくのがいつまでも、聞こえていました。

私も、家族五人死にました。ほんとうに、あの日が、なかったら、もう一度ひと目でもいい。昔の家族に逢いたい。二度と、戦争は、しては、いけない。

 

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