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ヒロシマの街を歩いて 
上田 千代(うえだ ちよ) 
性別 女性  被爆時年齢 18歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2016年 
被爆場所 広島市南観音町[現:広島市西区] 
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●被爆前の生活
昭和二十年当時、私は十八歳で、夫と、夫の両親、義妹と広島駅近くの西蟹屋町で暮らしていました。

夫の上田政道は徴用されていて、汽車で呉の海軍工廠へ通っていました。戦争が激しくなり各地が次々と空襲される中で、長男を妊娠していた私は、夫の親戚がいる賀茂郡原村(現在の東広島市八本松町)へ疎開しました。その頃は妊婦疎開といって、妊婦は空襲があってもすぐに動くことができないので、田舎へ疎開することになっており、ちょうど親戚がいたのでそこを頼ることになりました。原村には、私の呉の実家から十一歳年下の妹が一緒に行き、疎開先の国民学校に入学しました。

昭和二十年六月二十四日に、私は長男の桂司を出産しました。それから一か月くらいは原村で過ごしましたが、家を離れているのは寂しく、広島は空襲も無く大丈夫そうなので、生まれたばかりの長男を抱いて、広島に帰ることにしました。

私が疎開している間に、上田家は南観音町へ引っ越していました。家は広島市立造船工業学校(学校は現在の市立広島商業高等学校、校地は現在の県立広島観音高等学校がある場所)のすぐそばでした。南観音は広島市の中でも田舎で、周りは田んぼや畑ばかりでした。もし空襲があっても駅に近い西蟹屋より危険は少ないだろうから、子どもが生まれるなら安全な場所がいいと、観音に住む親戚のおばたちが世話をしてくれました。またこの頃、食糧は配給制でしたが、家族全員が食べていくだけの十分な量は無く、多くの人がおかゆをすするような生活でした。しかし私は、実家の母が呉の海軍の購買所で働いていたので、そこから米や野菜を融通してもらうことができ、家族が食べ物に困るということはありませんでした。

●八月六日
八月六日は、普通の朝でした。夫は仕事に出掛ける用意をしており、義父と義妹はそれぞれ仕事で朝早く家を出ていました。私は八畳間のタンスの前に長男を寝かせて、外でおむつを洗濯していました。この頃のおむつは、赤ちゃんの体に当たっても痛くないように古い浴衣をほどいて、輪の形に縫ったものでした。洗って絞ったおむつの輪を腕に掛け、一階の屋根の上に作られた物干し棚に上がろうとはしごに足をかけた、そのときでした。

突然、空がピカッと光りました。私は、「家に焼夷弾が直撃した!」と思いました。おむつを放り出して家の中に駆け戻り、長男を抱きかかえた瞬間、爆風で家具が倒れ頭の上に物が落ちてきました。長男をしっかり抱いたまま外へ飛び出すと、どこかから飛ばされてきたのか、湯上りタオルが木に引っ掛かっていたのでそれで長男を包み、家から出てきた義母と一緒に逃げ出しました。

表では、人々が右往左往していました。近所の家はぺしゃんこに潰れています。そうこうしていると、学校の方から火の手が上がっているのが見えました。西へ向かって歩いていく人々も大勢います。どこへ逃げようか迷っていると、陸軍の兵隊さんが通りかかったので、私は「兵隊さん、どこへ行ったらいいですか」と尋ねましたが、兵隊さんは「ここにいなさい」と言われました。西へ向かう人たちは皆無言で、異様なほど静かでした。逃げていく子どもは泣きもせず、母親の手を握って黙々と歩いていました。

行く所も無いので、私たちは家のそばにとどまっていました。家は爆心地から約二キロメートルの距離で、周りが畑だったので火災にならず、結果的にはそれがよかったのだと思います。私も長男もけがはありませんでしたが、夫は飛んできたガラスの破片が全身に刺さっていました。お医者さんもいないので自分たちで破片を抜いて手当てをしましたが、細かいものや、手首に深く刺さったものは抜くことができず、夫の体の中にはガラスが一生残り続けました。

義妹の美佐子は、宇品町にあった陸軍の船舶練習部に勤めていました。原爆が投下されたのは、職場に着いて朝礼をしているときだったそうです。美佐子は職場のもう一人の女性と一緒に、兵隊さんに連れられて帰ってきました。広島市内が火災で通れないので、船に乗せてもらって広島市の西側の草津へ行き、そこから南観音まで歩いて戻りました。職場の女性の家は舟入だったので、家は焼け家族は皆亡くなっていたらしく、親戚のいる安佐郡の古市(現在の広島市安佐南区)へ行くという彼女を兵隊さんが送っていきました。

我が家は爆風で傾き、家全体が斜めになっていました。危険なので、その日は家の前の畑に蚊帳をつって休みました。家が焼けてしまった親戚たちがうちを頼って逃げてきていましたが、近所の人はほとんどよそへ避難して空き家になり、夜は周囲にあまり人がいなかったように思います。

●呉への避難
翌八月七日、広島の惨状を知った実家の両親と二歳年下の妹が、呉から駆け付けてくれました。実家の父は呉海軍工廠の施設部で、民間の船を海軍が使用する徴用船の仕事をしていましたので、すぐに船を手配してきてくれました。幼い長男がいるので、家のことは夫や義妹に頼み、私は長男を連れて呉に避難することになりました。

船は宇品に着けていたので、南観音から広島市内を歩いて宇品に向かいました。街は瓦礫の山で、歩くのも難しい状態でした。その道中で見た光景は、忘れることができません。川という川は、人間の死体で埋め尽くされていました。どの人もお腹が膨れ上がって浮いており、びっくりしたような顔で目を見開いて、肛門からはヒモのようなものがぴゅうぴゅうとたくさん出ていま した。そのときは何か分かりませんでしたが、あれは腸が体外に飛び出してしまっていたのだと思います。兵隊さんが川の中の死体を橋のそばにびっしりと寄せ集めて、引き上げる作業をしていました。

鷹野橋から電車通りを歩いていくと、まだ火が燃えていて通れない場所がありました。ちょうど通りがかったトラックの人が「ここへ乗りんさい」と言ってくれたので、私たちは火を避けるのに荷台に身を縮めて乗り、トラックは炎を突き抜け反対側で降ろしてもらいました。

御幸橋に差し掛かると、欄干のそばに中学生が二列に並んで伏せているのが見えました。その頃は皆戦闘帽を被っていましたので、原爆を受けたときにも被っていただろう帽子の形にだけ、髪の毛が焼け残っていました。何人か大人の姿もありましたので、先生も一緒だったのかもしれません。きちんと並んで伏せた姿勢のまま、全員が亡くなっていました。あれは本当にかわいそうでした。

長男を抱いて歩いていると、見知らぬおばあさんが近寄ってきて、「まあどしたん、きれいな赤ちゃんじゃね、傷が一つも無いんじゃね、あんたよかったなあ」と、涙を流して言ってくれました。けがをしていない赤ん坊に感激するほど、悲惨な状況だったのです。

やっとのことで呉に着きましたが、呉は海軍の施設があり何度も繰り返し空襲されていました。夜になると敵の飛行機が飛んできて、とても怖い思いをしました。私は呉にいるのがどうしても心細くて、八月九日に広島へ帰りました。

●呉から広島へ
広島へ戻るときは、実家の母が頼んでくれて、広島の奥の方へ野菜を取りに行くというトラックに乗せてもらうことができました。トラックで大洲まで行き、道を教えてもらってそこからは大きな道を歩いて帰りました。広島市内は建物がほとんどなくなり、どこまでも見渡すことができました。道の瓦礫が少し除けられていて、七日に呉へ向かったときよりは歩きやすくなっていたように思います。途中、以前住んでいた西蟹屋に立ち寄りました。近所に住んでいた知人を訪ねると、その人は大やけどをして軒下に横になっていました。「千代さん、子どもが死んだんよ」と言って、まだ小さかった息子さんの名前を呼んで、泣いておられました。

川に浮かんだ死体は減っていましたが、あちこちに負傷者の姿がありました。道端で動けなくなっていた母親が「この子を助けてください、どなたかこの子を助けてやってください」と叫んでいました。母親は何とか我が子だけは生かしたいという一心だったのでしょう、一生懸命訴えていました。しかし皆自分のことで精一杯で、誰も手を貸す人はいませんでした。私も赤ん坊を連れており、どうすることもできませんでした。母親の隣で横になっていた娘さんは身動きせず、もう亡くなっていたのかもしれません。

焼け残った浅野図書館の前を通ると、そこは「死体置き場」と書かれていて、建物の前の石段を伝って血膿が流れ出てきていました。中の様子はよく分かりませんでしたが、ものすごい臭いがして、のぞいて確かめる気にはなりませんでした。今でもあの光景を思い出すとぞっとします。

●南観音の家
南観音の家に帰ると、家族は全員無事でした。焼け出された親戚たちが避難してきていたので、うちは大所帯になっていました。大人数の食事の世話は嫁である私の仕事で、食事の支度が済んだらすぐ次の食事の支度と、朝から晩まで食べ物の心配ばかりしていました。しばらくはおにぎりが配られていたので、それをもらいに行ったりもしましたが、食糧を確保するのが大変でした。お産のときに疎開していた原村から、おじがお米を持ってきてくれて、とても助かったことを覚えています。ほかにも親戚が家の近くの畑を買って、そこにできた作物はなんでも採っていいと言ってくれました。行ってみるとカボチャばかりでしたが、一生懸命採ってきて皆に食べさせました。爆風で大きく傾いた家は、大工をしていた親戚がジャッキで起こし、綱を掛けて皆で引っ張って元に戻して、倒れないようにしてくれました。資材も無く応急の修理だけだったので、雨が降ると台所はひどい雨漏りがして、高下駄を履き、傘を差して煮炊きしていました。そんな家での生活は、新たに家を建てる昭和二十七年まで続きました。

終戦は、家の台所に置いていたラジオの放送で聞きました。戦時中様々な情報を得る手段はラジオで、どこの家にも一つはあったものです。終戦を知って、ああ、これでもう空襲はなくなるんだと、正直ほっとした気持ちになりました。戦争でたくさんの人が亡くなったのに、何のために死んだのだろうとも思いました。後から、偉い人たちは終戦の言葉を聞いて泣いていたらしいと知りましたが、私はそのときは、死んだ人のために泣くという実感がありませんでした。

●被爆の影響を案じて
私の家族や親戚は、広島市内に三十人くらい住んでいました。皆家は焼けましたが、やけどを負った人も回復し、一人も欠けることはありませんでした。やがて出征していた義弟二人も復員 して帰ってきました。

私も家族も元気で過ごしましたが、被爆したことで髪が抜けたり、病気になったらどうしようかと、不安は常にありました。私は長男を連れて被爆直後の街を歩いたことで、長男に原爆症の症状が出るのではないかと、いつも、それこそ三百六十五日ずっと心配していました。ちょっと体調がくずれると、原爆症が出たのではないかと思いました。もし長男が病気になったら、それは私の責任です。それを考えると、とてもつらかったです。口には出せませんでしたが、長い間 心配は絶えませんでした。しかし幸いなことに、長男は大きな病気もせず元気に成長してくれ て、立派な大人になりました。

●平和への思い
平和というのは本当にありがたいものだと思います。原子爆弾は一発で、何も分からないうちに人の運命を変えてしまいます。一瞬で亡くなった人だけでなく、たくさんの人が時間をかけて苦しんで死んでいきました。原爆や、それ以上の恐ろしいものを作らないようにしてほしいです。戦争がなくなれば、原爆は必要なくなります。戦争は罪のない人も皆死んでいくものです。

戦争はいけません。原爆はいけません。世界中の人々に、このことを肝に銘じてもらいたいと思います。

 

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