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母の勲章 
岡田 健子(おかだ たけこ) 
性別 女性  被爆時年齢 13歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 1988年 
被爆場所  
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島実践高等女学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

「勲章」というのは、簡単に言いますと、例えば、公に国とか文化とかに功労のあった人に与えられるものだと思いますが、私の母は、広島で被爆して亡くなり、戦没者の一人として叙勲を受けました。

「勲八等瑞宝章」というのが私の母の勲章です。私は末っ子でしたので、家督を継いだ長兄が一番年少で母と死別した妹をあわれに思ってか、それを私にくれたので今は私の手元にあります。

私は、時々この勲章のことを思って、母にとってどういう価値があるものなのか考えてみることがあります。母の被爆と死とこの勲章を直接結びつけることは出来ないのは確かなことですが、母にとっても娘の私にとっても、この勲章が、「世界の平和」に功労があったので頂いたものとなるよう希望したいと思うのです。

母は、広島市内の鶴見橋近くに、町内会からの作業に出ていて被爆しました。当時、軍の命令だと思いますが、家を全部こわして広場にしてしまうという家屋強制疎開というのが、広島市内のあちこちで行われていました。丁度その日、町内会から一軒一人の割当てで強制作業に出たのです。

八月六日あの時間に、母は家屋のこわされた後のもうほとんど片付いた所で木片を拾い集めて、たき火の所に運ぶ作業をしていました。炎天下、かくれる所もない広っぱのようになっている所で、母は背中のほうから直接光をあびて火傷を負いました。

被爆した母は、直ぐに三人の娘をさがすため宮島行きの郊外電車の始発駅のある己斐町に向けて歩いたそうです。広島市内の南から北まで、大火傷を負いながら、ゆきずりの人も、たくさんの死体もほとんど黒こげでさがしようがないありさまの中を歩いたようでした。長姉は女学校の先生をしていて、学徒動員の生徒について、広島航空という飛行機の部品を造る工場に泊り込みで行っていました。その近くまで来て、母は電柱の「広島航空無事、死者○○名・・・・・・」をみて、娘の一人だけでも無事なのを確認してから、家に帰るため今来た道を半分も引き返し、そこで力つきたのかデパートの鉄筋の建物の日陰に寝てしまったようでした。母はそこにどういう思いで休んでいたのか今は知る由もありませんが、偶然にも、そこに親戚の女の人が通りかかって、「よしのさんではありませんか」と母の名を呼んで、そしてその方がご自分の家に連れて帰ってくださったそうです。被爆後の広島ではみんな大なり小なり被災者でしたので、母はそんなに長くはその家に居なかったと思います。終戦の日の前日、母の妹の主人、私にとっては叔父が田舎から私達をさがしに来てくれましたとき、重傷を負った母と、幸い無傷だった姉二人と私の四人は、我家の庭でトタン屋根の下に住んでいました。

叔父は、すぐに母を背負って、私達一家を田舎の家に引きとって世話をしてくれました。被爆した時、放射能を多く又は長く受けているほど影響を受けやすいわけですが、私達一家は、叔父のおかげで早く広島を出ることが出来て、私達娘三人とも原爆症にもかからず今日まで過ごしておりますし、母も被爆から一ケ月と三日長生きできて、その年の九月九日せめて畳の上で息をひきとることが出来ました。

母は五三才で亡くなりました。私も母と同じ年令になりましたが、母はほとんど苦痛を訴えなかったように思います。叔父は当時公立中学校に勤めており、その中学校が陸軍病院になっていましたので、時々軍医さんが往診してくださったり、当時では最高の火傷の治療薬を頂き、治療は私達でいたしました。背中全部と両腕の後部に火傷を負っていました。背中の火傷は、肩や脇から前のほうまで広がっていて火傷が深いので、健康な皮膚と火傷のきわのところが崖のようだと思いました。亡くなる前には、その健康な皮膚に一面小さな水泡が出来ていました。着物が着られないのでゆかたを敷いて上にもゆかたをかけていました。膿がたくさん出てうじもわいているずるずるの背中を、ゆかたの上から手で支えて起し、治療していました。今でも私の手に、母の火傷した背中のずるずるの感触が残っています。死ぬ前には、大きな床ずれも出来て腰椎の白い骨がはっきりと見えました。水分と栄養補給のための点滴など一度もしてもらうことなく、母は娘の治療だけを受けて亡くなりました。母は、ぐちをこぼしませんでしたし、いらいらした様子もなかったように思います。だまって一人で苦痛を耐えて、逝ったと思います。

しかし、母は何も感じなかったとは思えません。意識はしっかりしてはいました。終戦のことも知っていましたし、死の何日か前、私に「親はなくとも子は育つ」と言っていました。父はすでに二年前に亡くなっていました。臨終の時には娘三人を呼んで、下の二人の私達に、「よろしくお願いします」と長女に頭を下げさせ、まだ成人していない二人の娘のことに心を残して、「頼みます」をくり返して息をひきとりました。

私自身は、被爆者と言ってもあまり悲惨なめにもあっていませんし、今日まで守られ、恵まれたほうだと思います。しかし、母の生涯を考えてみますと、かつてあったことのない悲惨な人災に色どられた悲しい人生だったと思います。母はまだいいほうでしょう。広島、長崎の何十万の被爆者の犠牲を、これからも忘れてはなりませんし、無駄にしてはならないと思います。母は、命をはって平和の種となったと思える日を、私は希望しています。戦争のない世界になったときこそ母の胸のなかに本当の勲章がつけられる日ではないでしょうか。

 

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