国立広島・長崎原爆死没者追悼平和祈念館 平和情報ネットワーク GLOBAL NETWORK JapaneaseEnglish
HOME 体験記 証言映像 朗読音声 放射線Q&A

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

体験記を読む
被爆体験について 
植野 辰夫(うえの たつお) 
性別 男性  被爆時年齢 17歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年  
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属 防衛隊 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
被爆時の所属

国土防衛隊安芸部選抜

職業
呉商業学校四年生(三月卒業)
学徒動員先、呉海軍工廠水雷部
昭和二〇年四月~八月病気休職中

投下時のいた場所と状況
安芸郡昭和村大字焼山二五二四(爆心地より一五キロ)
国土防衛隊勤務(奉仕活動)が週交替制で当日は明け番であり田舎の吾家にいた。

八月六日のこと
国土防衛隊(兵役ではない)員となり一週間交替の明け番で吾家にいた。真夏日の開け放なたれた部屋で読書中。
(1)青白い光が眼に吸い込まれ、読書を中断し眼を強く擦った。
(2)内臓をえぐるようなドーンと云うにぶい音がしばらくつづく。
(3)強風が音をたてて部屋には入り衝立を吹き倒した。

母の声で外に出てみると広島の上空にピンクと紫色のキノコ雲が天に立っていた。直感で毒ガスかもわからず山に逃げようと判断したが、結局夕方まで雲は消えなかった気がする。八月七日~八月一四日、入市については別紙とします。

注 昨年一二月未来への伝言として町田市原爆被害者の会へ手記を提供したものを流用させていただきました。

(別紙)
あの日の光景や出来事
八月七日~一四日 入市 救援活動をする

八月六日 夕方、村役場より至急広島に行くよう依頼あり。

所属する国土防衛隊とは、広島県安芸郡下、一六、一七才の青年で組織。 
     
宿舎は海田市町の小学校

隊員一五〇名位

任務 
一 敵の落下傘部隊が降りてきたら竹槍で突く迎撃隊。教練のごとく練習した。
二 広島市内の木造住宅倒解作業

村の同僚九名と徒歩で暗い山道、矢野―海田市

まだ暗い三時頃、小学校に着く。

八月七日 小学校の廊下は人の山で教室にも入れず、呻き声でいっぱいであった。

夏の朝が明けてはじめて見た光景は全たくの地獄であった。

顔が見分けられない人。手、足などぐるぐる巻きで血だらけの人。

生れてはじめて見るむごたらしい光景。

校庭で見るに耐えられず震えておりました。

負傷した将校の号令で正気に戻り、大本営跡へと向った。最初に片付けるためか、海田~向洋~広島駅それから先は熱くて進めず引き返した気がする。

八月八日 海田~向洋~広島駅~広島城~大本営跡、どの道を歩いたか定かでない。

城の濠に兵隊さんの頭からの死体が散見された。

大理石でできている建造物は動かすことができず馬の死体を焼いたおぼえあり。

帰り道、福屋デパートあたりで、靴音が聞え、多分八本松の練習場よりの部隊であった。

整然たる隊列で早駈けながら一糸乱れず西練兵場方面へと向かって行くのをみて、頼もしいと感じたことを思い出す。

此の惨状の復旧は兵隊さんしかいないと思ったからか。

八月九日~一四日

広島駅裏、東練兵場で救護活動。

何故か海軍の救護所が出来ており、広い草むらの練兵場から負傷者を運ぶ作業であった。

思い出すこと。
(一) タンカがないため雨戸ではこぶ。四人一組となる。
(二) 朝方なくなった女の子。となりにいたおじいさんが水が飲みたいとよく泣いたと。むなしかった。
(三) 耳のない人。布でおおってあるだけで、タンカから下ろした時にわかった。
(四) 何故か衣類をまとってない人が多かった。
(五) 食欲がなくなった。
(六) 二日以降、慣れると手を洗わずにオニギリを食べた。
(七) 神社の境内で死体を焼いた。一〇〇体位。

東練兵場以外での作業、定かでない。

作業中、空襲警報で防空壕の一番奥にとび込んでいた。ヤケドの怖さを知ったから。

八月一四日 熱いから水をガブガブ飲み、高熱、下痢となる。赤痢と診断され

八月一五日 田舎の避病院に入院していた。

どうやって来たか記憶にない。

八月一八日頃か、現在広島での地域で赤痢症状は赤痢ではなく原子症であると発表、即退院する。一七才の生意気盛りで何んでも珍しいもの見たさで世の中の出来事に興味があったが、八月七日だけは別であった。むごたらしい地獄を見て、正視出来ず、早く忘れようとした気がする。

同僚とも以後その話は殆んど出てこなかった。併し東京の生活では、あの日のことが焼きついており、広島第二県女の手記、桜隊のテレビ丸山定夫、広島ノート大江健三郎、何時も胸をうつものばかりであった。

今、此れを書きながら鮮明と云ってもいい程、よく記憶にあったものが思い出せなくなった。帰省して当時の同僚と記憶を辿りたいものだと思ってもいる。
                          以上

平成七年一一月一九日

                        植野辰夫

  

HOME体験記をさがす(検索画面へ)体験記を選ぶ(検索結果一覧へ)/体験記を読む

※広島・長崎の祈念館では、ホームページ掲載分を含め多くの被爆体験記をご覧になれます。
※これらのコンテンツは定期的に更新いたします。
▲ページ先頭へ
HOMEに戻る
Copyright(c)国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
Copyright(c)国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
当ホームページに掲載されている写真や文章等の無断転載・無断転用は禁止します。
初めての方へ個人情報保護方針