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広島での被爆体験記 
井門 豊(いど ゆたか) 
性別 男性  被爆時年齢 25歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1994年 
被爆場所 広島湾 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 大本営陸軍部船舶司令部船舶砲兵団船舶砲兵教導隊(暁第19777部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
被爆時、私は軍人であった。開戦当初より陸軍の船舶高射砲第二連隊(陸軍の輸送船に備え付けられた対空、対潜部隊)に所属し、私は大型輸送船の高射砲隊長として従軍、フィリピン上陸作戦を皮切りに各地の上陸作戦、輸送作戦に参加し、太平洋戦域、陸軍部隊の作戦地域の主要港には大半寄港、東はウェーキ島、西はラングーン、南はラバウル周辺、そして北はアリューシャン輸送にも参加し、度重なる戦闘に巻き込まれ、激しい戦場の修羅場を体験し九死に一生を得て一年九カ月間、陸軍でありながら海上勤務に終始した。

そして昭和十八年末、北千島に寄港した時一通の電報が待っていた。それは広島に新設される船舶砲兵教導隊(連隊格の学校)の教官としての転属命令である。そこから広島の生活が始まる。

この教導隊では実戦経験豊富な将校を基幹として洋上戦闘、そして射撃術の研究、洋上射撃の教範類の編纂、他兵科から転属してきた若手将校の教育、甲種幹部候補生の集合教育が主要任務であった。

営外居住であったので昭和十九年六月に清香と結婚、昭和二十年三月に一女誕生、三人家族で軍人であったが家庭を築き、一般社会人同様通勤するという、そのときとしては恵まれた状態であったといえよう。

さて、被爆した八月六日、部隊本部付の教育係として当日宮島付近での演習に参加すべく宇品七丁目の部隊本部へ早めに出勤し、船舶司令部の岸壁より小型船に必要兵器器材を載せ、約十名ほどの下士官、兵とともに宮島へ向うべく、元宇品島との間の小さな橋をくぐり抜け、京橋川と元安川が合流する河口の沖合にさしかかったところ上空をB29一機通過するのを確認、当時は連日のように単機超高空偵察飛行に来ていたのであまり気にもかけなかった。ところが閃光一瞬、その光たるや八月の晴天の太陽の下にも拘らず、回りが真白になる閃光、そしてその直後の爆風の凄まじさ、外にいた私たち全員横倒しとなり、操舵室のガラスは吹き飛ばされた。起き上って見れば目の前にとてつもない巨大な火柱、ちょうど船の位置は陸岸から百メートルぐらい離れてはいるが遮蔽物のない視界で、広島の市街は平面的であるが見わたせた。市街は火鉢の灰の上を団扇で強く叩いたと同様超大規模の灰かぐらが舞い上り、もうもうとして市街を包みこんでいる状態でした。

直ちに船を停め私の過去の実戦の経験から何が起ったかを瞬時考えてみた。火薬庫の誘爆と一瞬頭に上ったがそんな火薬庫があるはずもなく、たとえ誘爆でもこんな巨大な火柱が起こるエネルギーはない。数々の戦場で身近に魚雷、空爆の体験をしたがスケールがまるで違う。そのとき私の頭にとっさに「これは原子爆弾に違いない」と閃き大声で叫んだ。

原子の核分裂のときの巨大なエネルギーは、マッチ一箱分で戦艦をも撃沈できるぐらいだということをその当時、大学の専門の教授の講演会で聞いたことを思い起こしたのであった。
(注 戦後の戦友会で私が叫んだことを同乗していた下士官が、どうして「井門さんは原子爆弾だと分かったのか」と質問され、そのときの状況を話し合ったことがある)。

私は数分様子を眺めていたが市街の中心部やあちこちから火の手があがり、火災が広がっていく様がよく分かった。爆発の起った中心部は大体紙屋町だろうとも推察しながら、キノコ状の雲から眼を離さなかった。爆心地から船までの直距離が四キロメートルであることは後で分かったが、私の視角二十度ぐらいで爆発し、巻き上った雲は八千メートルにも達しようか。頂部は私から見た四十五度の仰角となり、仰ぎ見るように凄まじい雲の巻き上り方の推移を見た。

爆発後三十秒ぐらいは頂上部の真白い火陥が巨大なキノコ雲に次第に変り、その下は赤紫のキノコの鼓型軸状となり、頭頂部にやや近い中心部がくびれて真空状態のように途中切れて、下部は白から薄い灰色が大きく裾広がりになって、市全体を包んだ暗黒に近い灰かぐらに繋っていた。

私の脳裏にはそのときの数分の状況がいまも明確に頭に残っており、絵に描くと(前頁)のようであった。このような四キロメートルぐらいの距離から見た人は意外に少なく、船舶司令部に於ける後日の検討会にも出席し口頭説明したが、実際に見た人はほとんどいなかった。数多くの原爆画や写真でも未だに見たことがない。

右の状態は何分も続かなかった。頂部は急激に湧き上がる雲が発達して次第にキノコ状が崩れ大積乱雲状となり、一瞬切れていたキノコの軸の中央部も下部の裾と繋がり、下から吹き上げる灰燼は街を覆って火は勢を得て燃え上り、市の周辺部も次第に炎上しているさまがうかがえた。

こんな驚天動地の中、私は当然のことながら妻子の住む自宅付近がどうなっているのか思い巡らしていた。私たちの部隊はすぐ近くで火災がないことは判っていたが、自宅の方向は少し煙が上ってはいるが全面火災ということはなさそうだ、しかし爆心地点からかなり近そうで不安な思いは募るばかりであった(後で測定したところ自宅は爆心地より二、八キロメートルと判定された)。我が家の位置は宇品から見て北東の大河(北端で被服廠東)という地名であった。

我が船上で眺めていた時間はたかだか十〇分ぐらいであったと思う。船を船舶司令部岸壁に戻すことを指示し、十〇分たらずで着岸、急いで部隊に戻った。兵舎の窓ガラスはほぼ壊れ、屋根も部分的に破れてはいたが倒壊はしていない。各中隊からの報告によると、けが人も少なく死者も隊内ではないが、市の中心部に何人か出ており、また分散駐留している隊に犠牲者が何人かいる程度とのこと。

部隊としては応急の措置として、市中から避難して入ってきた人の受け入れと救急措置と、可及的速やかに市中に入り一般市民の救援を第一任務とすることとして、状況も不明なため各中隊に任せることとして活動を開始した。

その後、指揮系統に従って組織的救援活動に移るのであるが、本来ならば西部軍総司令部が元締となるべきところ、壊滅状態となったため船舶司令官がその長として、組織だった活動が翌日から開始された。

私は昼まで情報の収集と救援の手配などの打合せに参加した後、急ぎ握り飯を食べるとわが家まで約二キロメートルを十五分ぐらいで走って帰った。途中炎上しているところもあり、また避難する多くの人と会いその凄惨さに驚くとともに、妻子も同様な可能性があることを思い不安一杯であった。家に近づいて付近一帯は燃えてないことを確認、家に近づくとちょうど防空壕から家の中のものを取りに帰った妻と路上でばったり出会った。見たところ白いブラウスは血で赤く染ってはいるが、ともかく歩ける状態で顔や頭も変りなく、抱いている子どもも異常なさそうなのに一安心、お互いに無事であったことを喜びあった。だが家に入るとガラス戸、襖、扉などどこに飛んだかあと形もなく、天井も吹き抜け一部畳の床も抜け落ち、辛うじて柱と一部の壁と二階(四軒一棟の二階建市営住宅で二階は他の人が住む別屋)が崩れ落ちず残り、倒壊は免れていた。妻の出血は飛び散ったガラス破片によるもので、出血のハデな割に小さな負傷で済んでいた。このガラスの破片で近所の人で死亡した人もいたが、ガラスが飛び散る活力は相当のもので、ラワン材の座り机に小さな破片が散弾の如く数多く深くつきささっていた。

生後四ヵ月の娘ほちょうどフトンに寝かせて授乳の最中であり、閃光と同時に子どもを覆うように妻が伏せたため外傷もなく、また二、八キロメートルという近距離にもかかわらず屋内にいたため火傷も免れたのは幸いだった。それにそのころ、子どもが水疱瘡で毎日爆心地に近い相生橋付近の皮膚科医院に通っており、授乳後出かける予定であったからもう三十分か一時間投下が遅れていたら間違いなく消え失せるというめぐり合せであった。

私は約十分間ぐらい一応家族の無事を確かめると直ちに部隊に引き返した。部隊の救助活動もややはかどり、営庭にテントを張り避難者の収容、治療、そして外に出ている隊と中心地に入るべく、倒れた電柱の取り除きなど全員必死の面持ちで事に当っていた。

その後、収容者は主に似島(広島港外の陸軍検疫所のあった島)と船舶練習部(現マツダ宇品工場)を中心に収容したが、私の部隊にも相当の負傷者を収容した。

被爆当日は火傷のひどい人、皮膚の剥れてしまっている人、顔をガラスなどで大きく切りパックリ口を開いた人、焼けただれて顔の形をなしていない人など多かったが、大半は数日で死亡した。船舶練習部には一区割全員女学生という部屋もあったが、皆一様に顔が焼け、数日中にそれが化膿して薬不足もあって小さい蛆がわいているのも見られるという正に生地獄場面もあった。その他今までの数多くの記録にある通り、目もあてられない地獄絵図さながら、死亡した人は胸につけていた氏名住所に基きそれを荷札に書いて衿に着けその死体を積み上げ、遺族など捜しに来る人を待っていたが、数日たつと腐臭が激しくなるので氏名などを記録した後荼毘に付した。市内至る所で焼却を始めその煙は何日も絶えることなく続き、独特の臭気は広島の南東部に漂い続けた。

私は救援活動の一環を担う一方、戦争はまだ続いているのであり、八月十四日には第十三期甲種幹部候補生が百名ほど入隊してくる予定なのでその受け入れ準備など、家には時折帰るだけで不眠の多忙さであった。

また、街の火災は続いているのに消火活動というものは一切なかった。消火活動の人は器材もなく、叩きのめされて気力も失っていた。火は次第に市の周辺部まで延焼し、数日無事だった御幸橋近くの専売局も三日目に類焼した。

三日目に私は船舶砲兵団司令部のある比治山(京橋川東、広島駅南にある)に所用で赴いたが、そこからほぼ灰燼に帰した中心部、そして正に周辺部へ延焼中の光景を見下ろし、この原爆の及ぼした被害状況を知るとともに敗戦を現実に見た思いであった。もうこんな原爆があっては戦争というものは世の中に存在しなくなるだろうと痛感した次第である。

さて、これまでのところ人的被害は直接の火傷、外傷によるものばかりと思っていたところ、間もなく放射能といういままでの常識外の人体への影響の大きなものがあることを知らされた。

私が結婚するまで下宿としていた先のオバさん(五十八歳)が疎開作業の奉仕に出て帰ってこないと遺族から知らされ、探す手段もなく、どこかに収容されているに違いないと思い無事を期待していたところ、船舶練習部より私に電話あり、西ミツノさん(隣のオバさん)が井門さんに氷か冷たい水を持って来て欲しい、といっているからすぐ来てください、とのこと。数百メートルのところなので駆けつけたところ、さきほど死亡したとのこと。火傷も外傷もなく、察するところ爆心地に近い所の遮蔽物のある所で被爆したものだろうが強烈な放射能のため、数日で死亡したものであるとの軍医の診断であった。

また、拙宅の二階の人が初めは外傷もなく、たいしたこともないように見受けられたが、次第に髪が抜け、肌に斑点が生じ十日間ぐらい苦悶を続け毎夜苦しさに耐えられずうめき声をあげ続けて死亡された。そして拙宅の回りの人が次々と同症状に陥って次々と死亡するのを見、聞くうちに明日はわが家の者にも、と極度に怖れたが幸いに起こらず終わった。なかんずく生後四ヵ月の娘は近所の人からよくこんな赤ちゃんが助かったものだと言われたが、抵抗力も弱いだろうし放射能障害がどんな形で起こるか案じ続けた。

かくして私たちは雨露をろくろく凌ぐ家もないまま九月十二日まで広島に滞在し、敗戦後の残務整理を行ない、私が部隊の「暁第一九七七七部隊」の看板を下ろし、部隊長、材料廠長(兵器管理責任者)ら数名の将校を残し解散、復員した。

復員後在籍していた会社に戻ったが、妻とも体調不調が続き、何でもないのに鼻血が止まらない。下痢が一ヵ月も続くとか正常でない状況が三年間ほど続いた。勤務しながらの療養を続けたのである。私は被爆位置こそ四キロメートルとやや爆心地から距離があったが、連日爆心地近くに出入りし、白血球も医者が驚くほど下がっていたが三年を過ぎるころから回復し、ほぼ健常な状態に回復した。

なお、私たちは被爆者手帳の制度ができてから間もなく、広島出張時にそのことを知り、第三者の証明もなかったが被災地での市長の「罹災証明書」(配給ものなど優遇のため)をもらっており、私の復員証明書双方とも保存してあり、さらに子どもの出生地として寄留措置をした戸籍謄本とで都衛生局にて即座に認定を受けた。
  

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