昭和二〇年八月六日、当時勤務先の海田市駅から広島駅東の操車場へ助勤要員として七時五〇分頃詰所に入り、新聞の(大根で飴の作り方)という記事をみつけて書き写していたところ突然右の頬にヤキゴテを当てたような熱さをおぼえ、アツイッと手でおさえた途端にサ、サ、サーと目がくらむような光が走った直後、にバシーンという感じの音と共に爆風が襲って来た。(他の人は、ドーンと言ったというが私にはなぜかバシーンと聞えた)ほんの一刹那の出来事であった。目の前はホコリ、石炭の粉でまっくらとなった。戸外に居た同僚の中には爆風で吹き飛ばされ動けなくなっている者もいた。ふと気がついてみると右の頬にペンがつきささっていた。
構内に停車中の石炭を積んだ貨車の上へ逃れてくる怪我人を押し上げ、私も海田市駅へ帰りついた。上司の助役(東さん)に報告後、ただちに負傷者の救護にあたった。広島市内から約一〇キロの海田市駅前の国道上は逃れて来る負傷者の列となった。路辺に倒れ込む人、うずくまって苦しむ人を、船越国民学校の校舎へ運んだがみるみる中に一パイとなり、夕方には校庭にゴザを敷かれた上に寝かせて、治療等はなすすべもなく身寄りの者が尋ねてくるのを待つのみの状態であった。夜に入っても、収容の状況が続いた。
次々と息を引きとり、さっきまでうなっていた人が動かなくなって目を開けたまま死んでいる人、怪我人の中を身寄りの人の名を呼んで走り廻る人、気が狂って、軍歌を唄って暴れる人、真に地獄絵の様であった。死者は、在郷軍人や警防団の人達が海田市駅南の浜に運び出して行った。自分達駅員は前記の様な収容作業(作業というのは変だが・・・・・)に当った。
この様な中で生涯忘れることのできない事がある。それは私の背中で悲しい死をとげた人の事である。この人は六日朝福山から所用で広島へ来て駅前で電車を待っていて被爆。もろに熱線を浴びて大やけどを負っていた。夕方までかかって、海田まで歩いて帰ったらしく、道辺でうずくまり苦しんでいた。その人を背中におぶって、国民学校へ向う途中、とぎれとぎれにこの事情を話し今は忘れてしまったが自分の住所を言って、この事を家族に知らせてほしいと言った後、ガクリと背中に重量が加わり、これは・・・・・・・・・と思ってゆすり上げたが息が絶えていたことであった。そっと電柱にすがらすように降ろしたとき、ガツンと鈍い音がして死体となって転ったときの感情は、真に、悲惨あわれ、敵に対する怒り、家族の嘆き等々が胸中をかけめぐり、今朝からの様々な出来事と共に、頭の中がガンガンとして、道辺に座ってワンワンと声を上げて、当時十七才の多感な頃の私は泣いた事を、五〇年過ぎた現在もついこの間の事の様に思い出し、夢にも再三見ることがある。
無差別に人命を奪い去る殺人兵器、原水爆こそ人類の敵である。八月六日のただ一日だけの事でなく、その後の永い年月は、原爆に起因する苦しみの連続であった。紙面に書き表すことが自分は無能であり、不可能である。
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