爆音がしたので空を見上げると、雲の切れ間に、B29が光って見えました。間もなく港の入り口上空より、パラシュートが三個、スイー、スイーと、高度を下げながら流れて行くのを見付けました。パラシュートの下にぶら下がってる物体は何だろうと思ひながら、しばらく、目で追っていました。顔が九〇度位浦上の方へ向いたとき、サイレンと早鐘が鳴り出したので顔を元の正面へ戻したのです。その時、ピカッ、アチッー強烈な光と熱です。私は右顔面と右首の所を押さえて、身近な他人の家に頭から飛び込んだのです。暫く気を失っていたのでせうか。落下物で我に返りその家を飛び出し、無我夢中で倒壊した瓦礫の中を悪戦苦闘しながら我が家へ辿り着いたけど、我が家は傾いて入れず、私は山の畑へ逃げました。それから毎日毎日丘の上から長崎の街が燃えて行くのを眺めていたのです。
数日後、おにぎりの配給があると云ふので、新こうぜん小学校へ行きました。校庭でわ赤十字が炊き出しをやってましたので私も並びました。隣の体育館が臨時の病院となっていて、中から遺体が次々と運び出され、校庭に魚河岸のマグロのやうに、並べられています。その遺体を清掃局のゴミを運ぶ荷車に山と積み上げて、破れた穴から顔を出して大きな目玉がギョロリとこちらを睨んでいます。手鈎で内臓がはみ出したまま、何本もの手や足を箱の外へダラリと垂らして、次から次へと何処かへ曳いて行くのです。
私はおにぎりを頬ばりながら、間近で見ていました。
私の家の近所にわ、顔や体を半面ヤケドして治療もできない物凄い形相の人達が多数いました。当時の街の空気が臭いのでせうか、無数の大きな銀蠅が、纏わり付いてきます。顔前で手で払いながら歩くやうでした。その蠅がヤケドの化膿した傷へ卵を産みつけウジムシとなって顔面を這い廻るのです。今思い出しても身の毛がよだつ想ひです。
数年経って、強烈な光熱を受けた私の右頬右首が異常に腫れ上がり痛み出しました。それから長い間、長崎医大調(しらべ)外科にお世話になりました。顔の絆創膏が取れるまで一〇年の月日が掛りましたが、その後、完全に脳裏から忘れ去った頃、右頬が異常に腫れ上がり、鏡を見て、愕然としました。童話に出て来るコブトリ爺さんが目の前に居たのです。以後、何の前触れもなく突然に現れます。私は地獄のやうな筆舌に尽せぬ体験を致しましたが、今後はだれ一人体験してはいけないのです。人類の滅亡です。然し次世代の忘れた頃に再び起こりやしないかと、不安です。
|