私は当時四才でしたが、あの日のことははっきりと覚えております。
夏の暑いお昼前、小さかった私は近所の子ども達とござの上でままごと遊びに興じておりました。「ヒコーキの、ヒコーキの」という歌のようなよろこびのような兄の声と同時にサイレンの音。母の「早くおいで!!」と叫ぶ声。一目散に走り出したと思ったらピカー!!と光線が走りドカンという音で、私の体は吹き飛ばされて気が付いた時は溝の中に倒れていました。
父は諏訪町の製麺組合という会社に勤めていましたが会社は爆風でガラス等が飛散し軽い負傷で済み歩いて帰って来ました。近所の防空壕へ避難していましたが、爆心地より大勢の負傷者が運びこまれ、私達は出されてしまいました。夜になり爆心地の方を見ると、それはそれは、この世ともいえぬ真赤に燃えさかる光景が目の底に焼きついています。
爆風の時に鼓膜に穴が開いたのが今でも中耳炎のくりかえし、頭痛のたねです。血液の疾患、骨の疾患、消化器の疾患と健康管理手当の申請が出来ますが、難聴になった者への手当も請求出来るようになってほしいものです
|