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被爆体験について 
岡本 弘江(おかもと ひろえ) 
性別 女性  被爆時年齢 15歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 倉敷航空機(株)(広島市吉島本町[現:広島中区]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島女子高等師範学校附属山中高等上学校 3年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

私は、五〇年前八月六日、広島で被爆しました。女学校三年生の時です。山中高女二年生の終り頃、学徒動員され、吉島飛行機製作所で、戦闘機の部品を、電気メッキする仕事を、させられて居りました時、原爆にやられました。

世の中の雷が、全部まとめて落ちたような、閃光が走り、大音響と共に、建物があっという間にこわれ、頭の上から倒れかかり、押しつぶされ、頭から顔から、血が吹き出し、血の海の中で、気を失いました。物すごい痛みに、意識がもどり、這い出し外に出ました。その時に物すごい惨状が、目にとびこんで来ました。衣服は燃え落ち、頭の毛は焼けちぢれ、顔や背中、胸の、皮膚は黒焦げになり、ボロ屑のように、たれ下った人達が、沢山のろのろと、歩いて居られました。それは、この世のものとは、思えませんでした。友と二人何もかも、焼きつくされた廃墟の中をひたすら走り、軍用トラックに、死体と一緒に乗せられ、家に帰りました。

父は、広島文理大へ、勤務に向う途中、京橋町で、被爆しました。顔は大きくはれ、目も鼻も口も見分けがつかず、全身むらさき色に、焼けただれ、ふくれ上り、くさった大きな、肉の塊の様でした。弟は、タンカで運ばれ帰って来た時は、もう虫の息でした。中学一年生で、動員され、立退き疎開の後片づけに、連れてゆかれ、はだかで作業していて、原爆に焼かれました。一・五キロの鶴見町という所です。背中の厚い皮は、はがれ、真赤な肉がそのままむき出し、顔はひきつり、片目はつぶれ、脈もとぎれとぎれで、私達の、泣き叫ぶ声の中、翌早朝もだえ苦しみ死んで行きました。父も苦しみつづけ、九月五日、ものすごいうめき声をあげて、死亡しました。

私は、骨が出ていた、顔の傷は、そのままひきつり、全身打ぼくで、起き上れず、ジフテリヤの様なのどのはれ、ひっきりなしの下痢(血便)症、で骨と皮の様になり、その後も肋膜炎、白血球減少症、卵巣腫瘍摘出、子宮筋腫手術摘出、大腸ポリープ摘出、その上、リューマチ、で起き上れなくなりました。近頃はどうにか元気になり、被爆者の会の幹事として少しでもお役に立ちたいと張り切って居ります。

いつまで続けられるか心配ですが、?いつも不安です。

 

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