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夾竹桃は今日も赫く 
六田 定明(ろくた さだあき) 
性別 男性  被爆時年齢 2歳 
被爆地(被爆区分) 長崎(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 銭座国民学校(長崎市銭座町一丁目[現:長崎市銭座町]) 
被爆時職業 乳幼児  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
抜けるような青空に浮かぶ雲は、飽くまでも白い。澄み切った空気を射抜く真夏の強い日差しは眩しく、辺り一面を真っ白にする。

長崎の夏は白い。

その日も長崎は何時もと変わらない朝を迎えた。その日。昭和二〇年八月九日。敗戦の色濃く、三日前に広島に投下された人類史上初の原子爆弾は、最早それを決定的にしていた。

当時、私の家は長崎市船蔵町(ふなぐらまち)に在り、私はそこで生まれた。二歳になったばかりの私を末に姉三人、兄二人。家族八人が戦時下の窮乏生活ながら楽しい毎日を送っていた。長崎市には、戦艦武蔵を初め数多くの軍艦を製造する世界に名立たる三菱長崎造船所があり、既に制空権を奪われていたため、B29が毎日のように飛来しては、爆弾の投下を繰り返していた。

運命のその日に遡ること一週間程前(正確には八月一日)の空襲は殊の外激しく、私の家のすぐ傍の石橋にも爆弾が落ち、家の窓ガラスは大半が破れ、石橋の破片が屋根に大きな穴を開けてしまった。危険を感じた母は父と相談し、早速翌日、私のすぐ上の姉と兄を連れて長崎市から少し離れた時津(とぎつ)村(現在、町)に一時疎開した。私の家は前にも記したように船蔵町であるが、通り一本隔てれば銭座町(ぜんざまち)。疎開した姉は銭座小学校に通っていたため、母は私だけを連れて姉の転校手続きのため、船蔵町の我が家に八日振りに、即ち八月九日の午前一〇時頃戻って来た。丁度警戒警報のサイレンが鳴り、間もなく解除になったため、近所の知り合い達に挨拶をしながら私を抱いて銭座小学校に向かった。午前一〇時五〇分頃であった。私の家から銭座小学校まで徒歩約六~七分の距離である。

運命のその時。それは銭座小学校に着いて担当の先生が書類を書き始めて間もなく来た。午前一一時二分。一瞬の閃光と爆風は街を廃墟と化し、同時に七万三千余人の尊い生命を奪ってしまった。

奇しくも、母と私は鉄筋コンクリート三階建の銭座小学校の中で、全くの無傷であった。原爆は松山町の上空五〇〇メートルで炸裂。母と私が被爆した銭座小学校まで僅か一五〇〇メートルの距離である。転校手続きどころではなく、慌てて私を抱いたまま小学校の外に飛び出した母が目にしたものは、救護所となっている同小学校に向かって列をなして来る人々。顔は何故か真っ黒に煤け、服はボロボロに破れ果て、露出していた体の各部の皮膚はビラビラに剥がれ、体のそこかしこから血を流している老若男女の悲惨な姿であった。母は小走りに我が家の方へ引き返したものの、辺り一面、建物という建物は崩壊し、ただ、斜めにかしいだ一本の電信柱と側溝の位置関係から僅かに我が家の在処を確認することが出来ただけであった。一〇数分前に立ち話をし、笑顔で見送ってくれた近所の知人達の姿は、最早どこにも無かった。運命を分けた僅かな時間の差であった。そこに立ち止まる間もなく、直ぐに町内の緊急避難所になっていた防空壕へと急いだ。この防空壕で、母は先に避難していた私の長兄と出遭った。

私の長兄は、当時瓊浦(けいほ)中学、(現、長崎西高校)に通っていた。校舎や校庭で教師や生徒の大半が原爆の犠牲となり、帰宅の途にあった者も同様であった。幸にも長兄は、我が家の玄関に入った途端に原爆に遭い、崩れてきた家の押入に反射的に駆け込んで、僅かな隙間で助かった。頭と親指の付根に小さな怪我をした程度で済み、丁度防空壕に避難したところであった。無事の再会をゆっくり喜ぶ暇は無かった。警防団が来て、近くの変電所に火が付いて危険だから山の上に急いで逃げろとのこと。母は、私を抱き長兄を連れて金比羅山に向かった。途中、人や馬の死体が幾つも横たわっていたが、母には恐いと思う心の余裕すら無かった。細い山道を蟻のように列をなしてひたすら上る。それまで私を腕に抱いたままであったが、母は流石に疲れ、私の着ていた肌着を裂いて負ぶい紐を作り、私を背負って、再び山道を上り続けた。それから立山の方に下り、寺町の晧台寺(こうたいじ)に着いた。午後六時頃のこと。午前一一時から約七時間、飲まず、食わず、休まずの逃避行であった。ここで無傷の父、頭に少し怪我をして包帯を巻いた私の長姉と再会することが出来た。晧台寺から見る暮れ行く長崎の街は、真っ赤に燃えていた。もう一人の姉も、その日は運良く長崎市外の長与におり、翌日時津に避難する私達家族五人の一行と市内の大橋でばったり出合い、家族八人の無事が確認出来た。

原爆で家も家財道具も灰塵に帰してしまったが、八人の家族が皆無事であったことは、ただ「幸運」の一語で片付けられない何かを覚える。

私が二歳の時の小さな原爆体験記。無論、私の記憶に残るものは何も無い。語部となってくれたのは母である。

母は、私達子供達に幼いときから色々なことを教えてくれた。唱歌、英語の歌、歴史、さまざまな故事来歴、短歌・・・・・・そして、この忌まわしい原爆のことも。

母は、明治三五年に佐世保で生まれ、三歳の時、父親の民政省への転勤で大連に渡った。神明高等女学校の中途で単身内地に戻り、長崎女子師範(現、長崎大学)に入学、卒業後約一七年間、長崎市内と時津の小学校で教鞭を執った。被爆の数年前に既に退職していたが、市内には師範学校時代や教師時代の友人や教え子達が大勢いた。そして原爆は、これらの母の身近な人々の尊い生命も数多く奪い去ってしまった。母の話が亡くなった教え子達のことに及ぶ時、さながら、映画「二十四の瞳」の大石先生が、出征し戦場に散って行った教え子達の幼き日々に思いを馳せる、あの愁いに沈んだ面持ちそのものを見る。

あの日、私を背負ってひたすら逃げる山道には真っ赤で鮮やかな夾竹桃がたくさん咲いていた。それは、原爆で傷ついた人々が流していた血の色であり、背中と言わず手足と言わず火傷でめくれ上がった人膚の色であり、そして晧台寺から見た、暮れ行く中に真っ赤に燃え続ける長崎の街の色であった。

「私は原爆の日から夾竹桃が嫌いになった」と母は淋しそうに言う。その淋しさの中には、罪もないのに好きになれない夾竹桃へのお詫びの気持ちも含まれているような気がする。

母は、幾十年と無く日記を書き綴っており、その中に折節の歌を詠んでいる。

  子を背負い炎に追はれさまよひし
            山の小径に夾竹桃の赫き

  夾竹桃燃ゆる炎にみまかりし
           友を偲びて原爆の日

原爆の日の思いを詠んだものの一部である。夾竹桃が咲く頃になると、夾竹桃を見ると、夾竹桃という言葉を聞くと、母の顔は心なしか曇って見える。間もなく九一歳を迎える母。日々の日記を綴り短歌を詠み、子供・孫・曾孫達にせっせと洒落たセーターを編み、文芸春秋を毎号楽しみにして読んでいる幸せそうな母。だが、原爆で傷めた母の心を癒すことが出来るものは何も無い。

今日も夾竹桃が、あの日と同じように咲いている。飽くまでも赫く。

  原爆にみまかりし友今もなほ
      「夢で再開(あ)へり」と母はのたまふ
                          定明



  

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