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被爆体験について 
小川 智道(おがわ としみち) 
性別 男性  被爆時年齢 12歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

当時の住所、中島新町の自宅が、強制疎開になり、疎開先住居を求めて、父と私で八月四日賀茂郡東高屋村に出向き、病弱な母を心配しながら、翌五日、一日中仮住居をさがしましたが、結局見つからず、仕方なしに、八月六日早朝西高屋駅より汽車に乗る積りでプラットホームで汽車を待っている時に、原爆が落下され、キノコ雲を見ました。廻りの大人達は、東洋工業が、爆発したんだろう等と話していましたが、汽車に乗り海田駅で止められ、徒歩で入市。大正橋から、比治山線市電通りを鶴見橋から、白神社前―紙屋町―相生橋と電車通りを歩きました。

おびただしい死体を始めは「またぐ」事をためらっていましたが、市内に残した母の事が心配で、仕方なく、念仏をとなえながら、またいで歩きました。

相生橋から何度か、当時の仮住居材木町に入ろうと試ましたが、火勢に押され、断念し、相生橋で仮眠。橋の上には、被災者と、肉親を気づかう家族達が、真夏と云うのに、寒さで近くの焼木を集めて、体を暖めました。私達の目前で次々と息を引きとる方が多数おられ、この世の生地獄を見たような気がします。

翌七日早朝、中島本町より川岸に添って、街中に入りましたが、火ぶくれで男女の区別がつかない方達が、口々に水をくれとせがまれ、始めは、川まで降りて手で水をすくって、一人一人に差上げましたが、きりがなく、「ごめんなさい」と詫びながら、誓願寺隣りの仮住居に向いましたが、母の姿はもちろんありませんでした。以後、東高屋の叔母の家で寝ては、翌日入市を繰返しやっと一週間後に仮住居あとを掘返して白骨体の母を見つけました。

今でも覚えているのは、割箸で骨をつまんだとたん、割箸が、燃えました。被爆して何日も経っていると云うのに、恐ろしい事だと、思いました。

非人間的行為は二度とあってはならないと思います。

 

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