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被爆体験について 
沖盛 真佐子(おきもり まさこ) 
性別 女性  被爆時年齢 21歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 広島女学院高等女学校 広島鉄道局(広島市上流川町[現:広島市中区上幟町]) 
被爆時職業 公務員 
被爆時所属 運輸省広島鉄道局 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
私は三次町の自家から、芸備線で、毎日、三次駅朝五時一五分―二〇分発、広島駅着、七時二〇分―三〇分着で広島市宇品町の鉄道局の旅客統計審査課へ勤務して居ました。其の頃、宇品港には、暁部隊が有りました。鉄道局の各課は、それぞれ市外へ疎開されました。旅客課は市内の上流川の女学院に疎開しました。木造二階建を二棟借りて居ました。キップの買へない時代、ならんで買って居た。

八月六日は朝から青空に太陽が「キラキラ」と照って居ました。暑いので「窓の硝子」を全部開ました。暫して爆音がしました。でも空襲は解除でした。同室の友人が窓から顔を出して空を見居ました。早く来て見んさい。とっても、綺麗な飛行機よ。私も窓から顔を出し見ました。(B29でした)真白な機体が、太陽の光で「キラキラ」と光って軽るそうに、二機が回転して居ました。空を見て居る間が、二分―ぐらいでしょうか。机に向い、椅子に腰を掛け仕事にかかる瞬間でした。光が早いか、音が早いか同でした。私は暗闇の中で茶色と物を焼く臭いがして、私の体は二回転し、気が遠くなり、気が付いたら校庭の大きな木の根本へ、爆風で家屋と一緒に下敷になって居ました。もう家屋に火が付いて居ました。体を動かして、這い出ました。三次町に、早く帰りたく常盤橋に向いました。途中、学院の生徒(学徒動員)を連れて、牛田町の、早稲田神社に行きました。牛田町へ一週間ぐらいいたと思います。父と妹が捜に来て呉ました。其の日に、三次へ帰りました。

三次駅前に「テントの」仮設病院が出来て居ました。そこで、頭、首、背中、腕と立って居る「ガラス」を取ってもらう内、気が遠くなりました。気が付いたら我家で寝て居ました。十月か十一月頃から髪は抜け、夜るは物が、見えなくなりました。腰も痛くなりました。

今でも、頭、首、背中に「ガラス」が入って居ます。腰も痛のです。色々と書きたいのですが、纏まりません。私は、今月で、七三才になり、惚呆ない内、記憶が確かな内に、と思って書きました。長い間、手紙を書くこともなく、字も忘れ大変でした。乱筆、悪筆で読みにくいと思います。でも精一杯書きました。

  

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