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被爆体験について 
大友 繁利(おおとも しげとし) 
性別 男性  被爆時年齢 4歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 1995年 
被爆場所 広島市銀山町[現:広島市中区] 
被爆時職業 乳幼児  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
当時、京橋町九十五番地に自宅があり、銀山町で父母が喫茶店を営んでいました。父親は中国大陸へ出兵中、母親は疎開準備中で母の実家(呉市広町)へ通っていました。

あの日の朝もその状態で、母は不在。七月二十日に四才の誕生日を迎えたばかりの私は、いつもの様に近所に在った銀山町の銭湯へ遊びに行っていました。(湯を抜いた大きな風呂場は、私達の良き遊び場になっていたようです。)その運命の一瞬に、何が起こったのか全く解りませんでしたが、その後、崩れ落ちた屋根の上をトコトコと外へ歩いて出た事を僅かに記憶しています。その時、足のカカト部分に多少怪我をしたようです。その後の私の記憶は、ある期間無くなっています。

母は私にとって継母であり、留守中に夫から預った大事な息子が行方不明になったというので、毎日毎日、呉市広町から広島へ通い、大変な思いで捜し歩いたのだそうです。(この時、死の灰を吸い続けた母は心臓病を患い、昭和五十三年秋、満五十七才で他界しました。)風呂屋の前で、息子の愛用の三輪車が熱線で溶けているのを確認しただけで、手掛かりも無く、とうとう死んだものと葬式をし、四十九日の法事を営み、その日、お坊さんがお帰りになった後へ、見知らぬ男の人が私を連れて訪ねて来たのだそうです。

その男の方の話によると、「オジチャン、オッパシテ」と男の子に声を掛けられ、三人の子供を連れて海田駅から列車に乗り込み、滋賀県米原の自宅まで帰った。その内、二人の子供は数日後に次々と亡くなり、残った一人(私なのですが)がショックで言わなかったのに、何日か経って突然「広島市京橋町九十五番地。大友繁春長男。大友しげとし」と名前を告げたとか。そこで、その人が広島まで連れて、その住所辺りへ来て見れば、呉市広町へ疎開しているという立看板が出ていたので、それを頼りに訪ねて来たという事でした。

という様な訳で、私の現在は在るのですが、小学校を卒業する頃迄、毎日下痢症状が続いたものです。一度、戒名まで付いた私ですが、生かされて今日のある身、感謝して日々送って居ります。 

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