被爆体験のことについては、これ迄にも書いてきており、今更の思いがないでもありませんがこれは唯一の被爆体験国日本の被爆者として、どうしても幾度でも世界に発信しなければいけないと思います。それは原爆は絶対に保有してはならないということです。何故なら地球をほろぼすからです。
僅か一〇才の少年(被爆時)でしたがB29機の飛来からしゅんかんのピカー(光)((注)今でも稲光でさえ体がふるえるのです)海上(三菱造船所の近くの)で伝馬船に乗って仲間達と遊んでいた時です。ピカーの光とともに船もろともふっとばされバラバラに散った船の板きれ一枚にすがって見上げた空のきのこ雲。不気味な静寂。其の後の街の悲惨な状況等は言うに及ばず。
父は戦後早くに亡くなり記憶にとぼしいのですが、生き長らえた母や身内達も何故か死の間際に大量の血を吐いて死んでいきました。又、胎内被曝のいとこも結婚して妊娠した途端に原爆症が出て何年も生死をさまよったりしています。私自身の発病にしても四五才という若さで何故という気持を捨てきれないところもあります。
思い返すと、しゅん時にして原爆孤児になってしまった友人達のうつろなひとみを忘れることが出来ません。戦後三年もすぎて中学一年の時、学校に放火して校舎が丸焼けになるという事件がありました。(やっと出来た校舎でした)その被爆孤児のうつろな目。又ミュージシャンとして成功した川原君も(思案橋ブルース作詞作曲)天がい孤独に耐えられず愛する人も出来たのに自殺しました。
悲しい事に人間はおろかです。歴史に学ばなければと言いつつも全然学ばれていないような時の移り変りを眺め乍ら未来を危惧するばかりです。だんだん減っていく被爆者の声を(殆ど老令と病人ばかりです)これからの人達に、しっかりと受けとめて頂きたいと願うばかりです。戦争に巻き込まれない国でいて下さい。お願いします。
(注)主人は右半身、特に右手は全く死んでおり、言葉も殆ど聞きとれない状態になってきました。長年つきあってきました私(妻)が夫の意を解し書きつづったものです。もちろん、本人に読んで聞かせて了解をとってあります。
代筆 森鶴代
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