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被爆について思うこと 
大坂 剛三(おおさか こうぞう) 
性別 男性  被爆時年齢 19歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2005年 
被爆場所 船舶通信隊補充隊(暁第16710部隊)(広島市皆実町一丁目[現:広島市南区]) 
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 大本営陸軍部船舶司令部教育船舶兵団船舶通信隊補充隊(暁第16710部隊) 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
私は広島市皆実町一丁目にあった暁一六七一〇部隊船舶通信第一中隊に入隊中被爆しました。爆心地より一・八キロでした。兵舎内でした。兵舎は崩壊してやっとのことで隙間からはい出して爆風で一寸先見えないなか比治山に退避しました。

退避してから気がついて見ると両足が火傷で皮膚がたれ落ちて靴が履けないので尻餅をついてヅーヅーとづるようにしてをりました。後から後からと兵隊や一般の被爆者が列を作って兵隊さん助けてくれ兵隊さん助けてくれと避難にやってきた。服はボロボロ、ヤケドで皮膚がたれ下りズボンのバンドの所にクシャクシャになってたまっている。歩けなくなって倒れるもの水をくれ水をくれ、それを見ているだけで何もしてあげることができない(もどかしい)お天気がよいので日の光に照されて一層いたいたしく見える。これが生地獄かもと思った。広島の町は火の海となって燃えている。夜になって皆んな静かになった。死んで行くのである。

朝になって救援隊がやってきた。わたしはトラックに乗せられて約六キロほど離れた仁保と云う国民学校に移動させられた。そこは野戦病院になっていた。私は二度びっくり。校庭には屍の山。学校の裏の畠には穴がたくさん掘られ死体を焼く煙りが数本立ち上っていた。

二、三日すると夏ですから蝿がつく。目や鼻の穴から蝿の幼虫(ウジ虫)がはい出してくる。それでも死にきれずにいるのである。

残虐残酷、神も仏もない。広島長崎は核兵器を使い破壊力が極限に達した、無差別爆撃である。軍隊は国民を助けるものだと思ったらまちがいだった。

八月一五日朝からラジオで昼に重大放送があるから国民総てのものが聞くようにとの放送があった。只今から重大なる放送があります。一億の皆様お起立願います。とのアナウンサーの前言葉のあと天皇の玉音放送があった。言葉が聞き取りにくく意味が判らず終った。天皇の忍び難きを忍んでという悲痛な声だけわかった。

今目の前に屍の山。そして死んでゆく被爆者。天皇の忍び難きを忍べといわれても今死を待っている人達はどう受けとめるのか。悪魔のような兵器を二度とつかわないでくれと願って天国にいったことでしょう。私はこの願を今でも忘れてをりません。
  

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