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暗闇の中の炎 
沖野 良子(おきの よしこ) 
性別 女性  被爆時年齢 22歳 
被爆地(被爆区分) 広島(入市被爆)  執筆年 1989年 
被爆場所  
被爆時職業 軍人・軍属 
被爆時所属 海軍総隊呉鎮守府呉海軍港務部 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
昭和二十年八月六日、私は二十二歳でした。呉海軍港務部に八月一日より勤務し始めたばかりの事です。港務部は現在の二河川の川下の突端に位置し、事務所はカマボコ兵舎、その名の如くカマボコの形をしたバラックでした。

六日朝、出勤したばかりの私はふあっとした風圧とちょっとの瞬間明るさを感じたくらいでした。そして例のあのキノコ雲がもくもくとたち上るのを呉から見たのです。何があったのだろうか、そうこうするうちに兵隊さん達の動きがざわざわとして、あちこちに伝令が走り、広島駅で列車に積んであった火薬が爆発したのだろうかとかいろんな事を言っておりましたが、電話も通じず、これはただ事ではないことが感じられ、皆不安を隠し切れませんでした。昼近くになって、ようやく特殊爆弾で広島は全滅だと大さわぎになり、救援隊を編成したり、連絡がとれないので先発隊を出したり、てんやわんやのさわぎです。もう仕事なんか皆んな手につきません。右往左往するばかりです。

私は兄や叔父の家族の事が心配で、昼から家に帰らせてもらいました。何しろ情報がまちまちで誰の言う事を信じてよいのかさっぱりわかりません。そのうち広島から命からがら火傷や怪我をしてやっと呉にたどり着いた人からの話で、少しばかり広島の様子がわかってきました。

そんな事が本当にあったのかしら、どうしても信じることが出来ませんでしたが、とにかく兄が生きていたらきっと帰って来ると家族みんな夜おそくまで待ちました。私達も七月一日の呉空襲でB29の焼夷弾攻撃を受け、家を焼け出され、かろうじて焼け残った姉の隣に同居させてもらって居りました。

もし兄が今夜中に帰って来なかったら、明日は母と妹が探しに行く事にして寝る事にしましたが、少し外の方で音がすると兄ではないかと出て見たり、なかなか寝つけませんでした。

とうとう朝になっても兄は帰って来ません。皆不安でいっぱいです。叔父の家が西観音町にあります。もしかしてそこへでも避難しているのかといろいろ思いをめぐらして二人分の食糧を持って、母と妹が七日朝早く探しに出発しました。

原爆で線路がこわれ、汽車は海田市駅までで止まり、広島まで皆線路づたいに歩いて行ったそうで、線路の両側には死んだ人、怪我や火傷で横たわっている人たちでいっぱい、広島駅前の土産物店も全部倒れてその軒下で休んでいた建物疎開の人たちなのでしょう、倒れた家の下からいくつも足がのぞいていたそうです。

叔父の家に行こうにも広島市内全部が焼け、破壊されているので道がわからなくて電車道をつたって歩いたり、まだ家がくすぶっていて熱くて通れなかったり、電車の停留所に電車を待っていた人が折り重なって死んでいて、その上にトタンがかけてあり電車の中も立ったまま人が死んでいたそうです。・・・・・・防火水槽のまわりは水欲しさに水の中に頭を突っ込んだまま幾人も死んでいた、護国神社の附近で馬が立ったまま焼け死んでいた、川には体が大きくふくれあがった男か女か見分けのつかないチョコレート色をした死体がたくさん流れていた、そして歩いていると、水、水をください、水をくれと手がのびてきて・・・・・・もう恐ろしくなって一時も早く広島のこの廃墟から出たいと一生懸命帰ってきたといって座りこんでしまいました。

お弁当を包んでいたフロシキも、持っていたハンカチも女学生らしい数人が、火傷で裸になって皮膚のたれ下がった両手で前をおさえて歩いておられたので見かねてあげたのだと云って居りました。結局誰にも逢えず、夜おそく二人共、疲れ切って真黒な顔をして帰ってきました。

八月の朝、今度は私と友達の塚田さんとで探しに行く事にしました。彼女は広島駅の裏の尾長町に叔母さんの安否をたしかめに一緒しました。呉から大勢広島へ通勤通学をしていったので帰ってこない身内を探しに行く人で駅はいっぱいでした。ながい事並んでやっと切符を手に入れ、海田市から線路沿いに歩きました。途中火傷や怪我の人が座っていたり、横たわったり、歩く事の出来ない人は荷車にのせられて行く人もたくさん見ました。顔や体に布をまきつけた重傷の人を連れて帰っている人も大勢見かけました。広島に近づくにつれてそんな人たちばかりです。まわりを見まわして、無傷で普通の姿でいるのは私達二人だけ。

広島はどこも焼けただれ、鉄骨はひんまがって垂れ下がり、プラットホームの屋根はふきとんでありませんでした。駅前の商店街もまだ燃え残りがくすぶって居ました。ところどころで水道管がさけ、あの大勢の死んだ人達が欲しがった水が飛び散っていました。

もう夕方で薄暗くなっていました。駅前のあちこちで被爆死した人を焼いていました。戸板で死人を運んで来て火の中になげこむ人、暗くなった焼け跡で人を焼く炎がめらめらと燃えて、黒と赤の影絵の如く浮き出た光景、いまだに脳裏に焼きついて離れません。

友達の知人の家は焼けていませんでした。玄関にも縁側にも屋外の軒下にも通りがかりの助けを求める被爆者の方々が沢山うずくまっておられました。その家は平屋でしたが天井が爆風で半分垂れ下がっていて寝ていて星空が見えました。そこで一泊させて頂き、九日の朝、兄や叔父一家の消息を求めて、電車道をつたって歩きました。

救助隊や近郊の人達の活躍、今で言うボランティアのお陰で、母が見た時のような光景はだいぶ片づけられていましたが、電車の所はトタンがかぶさったまま、電車は焼けただれて止まったままでした。相生橋は石の欄干が全部倒れていました。どこか場所は覚えていませんが、男の人が座っていて熱線をあび、影が石段にはっきりとついているのを見ました。やっと西観音町へたどり着きましたが、母屋は焼失して倉だけが残って居ました。壁には五日市に疎開に行くとケシズミで書いてありましたので、そこへ向かいました。

やっと訪ね、たどりつき、叔母は運よく家の中にいたそうですが、くずれた壁土が額にあたり怪我をしていました。叔父は自転車で中電本社に出勤途中、放射能をあび、吹きとばされ、顔面と上半身にひどい火傷をうけて、ふせって居ました。叔父の着ていた黒の背広は前だけ黒い生地は焼けて襟の芯(ベージュ色)は焼けずに残っておりました。空襲の時、白い物は目につきやすいのでなるべく黒いものを身に着ける様に云われましたが、原爆は白を着ていた者は軽い火傷ですんだのに、ほとんどの人が黒っぽいものを着ていて、ひどい火傷をして命を失いました。叔父は八月十三日に死にました。

当時は食べる物が無く、配給で大豆の油を取った後のしぼり粕をもらっていました。(平時は馬の餌です)被爆者で南瓜を食べた人は大変体によかったそうで助かったそうです。兄は校舎の下敷きになって背中に怪我をして、呉に帰って来てうんうんうなって寝ていましたが命は助かりました。

それから私達親子は兄の縁故で芸備線の塩町へ疎開しましたが、毎日毎日今日はあそこの人が今日はどこそこで何人とやらが死んだと聞かない日はありませんでした。本当に大勢の被爆者があとからあとから疎開先で失くなられました。

ある日の夕暮れ時、塩町の上空を日本の小型飛行機が低空で何回も何回も旋回していましたが、川近くの草原に着陸し一人の軍人さんが機内より出て来ました。少しして煙が出はじめました。燃え上がった飛行機を見つづけていましたが、敬礼をして、どこかへ去って行きました。

あー、なんで戦争をしたのだろう。何の為に。私のもう一人の兄も結婚もしないで二十八歳の若さで戦病死しました。勤務先の関係で私の知っていた大勢の友達、海兵団の人、戦艦大和をはじめ航空母艦、駆逐艦、特攻隊員、みんなみんな帰ってこなかった。

もう二度と戦争をしてはいけない。そして原爆がどんなものかよく知らない世界中の人に知らせなければ、原爆を体験した者が生きているうちに話しておかなければ、それは原爆にあった者だけがどうしても成し遂げなければならない宿命の様に感じます。 

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