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原爆の記 
大田 房子(おおた ふさこ) 
性別 女性  被爆時年齢 24歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 広島市己斐町[現:広島市西区] 
被爆時職業 主婦 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
大田房子 二十四才
大田伸広 一年三ヶ月
爆心地より二・五キロメートルの己斐町にて被爆

私達が結婚したのは昭和十八年二月四日、主人が二十五才、私が二十二才の時でした。その年の九月主人応召、堺の連隊に入隊。その時妊娠三ヶ月だったので広島の実家に帰りました。

十九年四月九日長男誕生。

二十年八月六日原爆投下、その日は雲一つないよいお天気で暑い日でした。

朝の片づけも終って一年三ヶ月の長男を寝かしつけて、窓際の鏡台に向って髪をときつけて居りました。その時眼もくらむ様な閃光と、物すごい音と共に何にも見えなくなりました。キナくさい臭いが鼻をつき、うす黄色い様な煙が、うすらいできて、あたりを見廻すと何処の家も、ガラスというガラスは皆粉々に飛び散り、戸、障子はたおれ、天井は抜け落ち足の踏場もない惨憺たる有様でした。

大急ぎで寝ている子供を抱き防空壕へ入りました。ガラスの一杯飛び散った玄関を、はだしで歩いて、よくけがをしなかったと後で思いました。子供は枕がやをして寝ていたので無事でした。兄の子供が、かるい火傷をした位でした。その内、市内の方から避難して来た人が沢山集って来ました。

下着だけの若い女の人、怪我した子供達、パンツだけで全身ねずみ色の男の人。

その内、大粒の黒い雨が降って来て壕の中に水が入り、仕方なく一まづこわれた家に帰りました。

時々偵察に来たのか飛行機の爆音が聞こえました。市中に勤労奉仕に出ている弟や挺身隊の妹の事が心配でした。

午後になって、弟が帰ってきたといふ母の声に出てみると、服はボロボロ、顔や手足に火傷をし、唇は腫れ上り人相の変った姿でした。電車もなく、橋もこわれ、丁度小さな舟がみつかったので数人と一緒に川を渡り、やっとの思いで帰って来たといふ事でした。お姉さん(挺身隊の妹の事)はとても生きてはいないだろうと云っていました。妹はとうとう帰って来ませんでした。

家に帰るなり、弟は寝たきりになり起きる事が出来なくなりました。火傷の薬をかえる度に痛がり夏の事なので傷口の包帯にはえがとまると痛いので、家族が交代でうちわではえを追う様にしました。血便も出て、母が伝染病ではないかと心配しましたが、原爆症である事が、後にわかりました。市中の方は三日三晩燃え続け私の家からも夜あかあかと燃えるのが見えました。

叔母が妹を探しに市中に出ましたが、わからず死んだものと諦め勤務先であろうと思われる所でお骨を少し拾って来ました。叔母が市中に入る時危険だから、命の保証は出来ないので行かないで下さいと云われたそうです。

数日を経て、小さい子供等いる人は疎開する様にいわれ私と長男、従妹と母の実家に行く事になりました。灯火管制で、暗い駅で汽車を待つ間、夜空を沢山の流れ星が次から次えと流れて行くのです。流れ星をみると人が死ぬと云いますが、あんな沢山の流れ星を今迄見た事がありません。原爆で死んだ人の魂なのでしょうか。それが今でも印象に残っているのです。

母の実家には福山で焼け出された親類の人が来ていました。そこで一週間位して、ラジオの重大ニュースで敗戦を知りました。兵隊さんが一杯で混雑する汽車に乗り広島へ帰りました。

弟も少しよくなっていましたが、なおった様にみえた火傷が又悪くなり火傷の再発等聞いた事がないと母が云っていました。その頃から被爆して外傷がないのに急に髪が抜けて、亡くなったりする人があり、母も弟の事を心配していました。

九月になって台風に見舞われ、原爆の後は台風で、この次は何があるのだろうと、皆で話したものでした。屋根が飛んで無くなったので、家の中で傘をさしていました。畳も黒い雨でボロボロにくさってしまいました。

三ヶ月位経った、もう霜の下りる様な寒い朝、母達と一緒に妹の亡くなった勤務先の焼跡へ行ってみました。見渡す限りの焼野原に所々ポツンと残った土蔵、やっと人が通れる様な細い道がずーっと続いていました。

現場で焼けた瓦の裏側に一つまみ程の僅かな髪毛が残っていましたが、もしや妹のではと思いましたが、違うかも知れないので結局持って帰りませんでした。

紙屋町付近に赤茶色に焼けただれた電車が一台ありました。人通りも無くまさに廃墟と云ふ感じでした。

知人の娘さんが近距離で被爆され、後にお逢いした時髪が抜け、お気の毒でまともに顔を見る事が出来ませんでした。

私の家は爆心地より二・五キロメートルの地点でしたが、爆心地に近い人は、どんなに恐しい事だったろうと思います。

犠牲者の方々の御冥福をお祈りすると共にこの様な事が二度とない様に平和が続く事を祈って止みません。
  

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