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荒木 禮子(あらき れいこ) 
性別 女性  被爆時年齢 14歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 広島駅(広島市松原町[現:広島市南区松原町]) 
被爆時職業 生徒・学生 
被爆時所属 広島市立第一高等女学校 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
私、荒木礼子と申します。広島市立第一高女の生徒(舟入高校)。

広島駅構内にて(被爆)一・七キロメートル。

学校の命令で広島市内の材木町(勤労奉仕)(学徒動員)で向う日でした。出かけるしたくをしている時、空しゅうけいほうになり自宅の防空ごうに入り、しばらくしてかいじょになり、すぐに駅に向かいました。向洋(広島駅の一つ手前の駅)。

父妹と三人で汽車は満員でデッキにぶらさがり駅につきました。改札口を出て市電の列にならびました。列が長かったので構内まで入っていました。妹がどれぐらい長いか見て来ると言って前に進んだしゅん間の出来事でした。すごいいきおいで吹っ飛ばされて何かの下敷になりました。

やっとの思いで駅の外えはい出ました。頭から血が流れ足の先からもいたみ血が流れ目の中に何か入ったのか見えないのでどうしていいかわかりませんでした。

やっとの想いで駅の前の防空ごうにたどりつきましたが人で一ぱいでした。たすけてたすけてとわめく人ばかりでぼうぜんと立ちすくんでいました。頭から血が流れ目があけていられないのです。その時東レンペイ場え逃げろと兵隊さんが私の手を取ってつれて行ってくれました。

その兵隊さんも顔の皮がべろりとむけてぶらさがっていました。私もおもわず自分の顔をなでまわしました。途中で父と出会いました。妹をさがして来ると別れました。三日目に妹をさがして死人と一緒にカンパン一袋持たされてねかされていたそうです。半身ヤケドで父がやっと二度三度行きかう時、お父ちゃんと言うかすかな声でわかったそうです。タンカで向洋の家え■■えつれてかえったそうです。一日一日とくいこんで行くヤケドのきずとたたかいながら二週間目におねえちゃん口があかないよ、といきを引きとりました。

私も頭のきずを赤ちんで目もいたむ足もイタムどうしていいかわかりませんでした。学校からの召集があり学校え出かけました。電車の通っていた橋のマクラ木の上を手と足を踏んばってわたって行きました。江波と言う所です。学校え行くと校舎はめちゃめちゃ、みんな死んでしまった。生き残ったのはクラスで数人。クラスの先生も同級生も。汽車が遅れなければ、私も材木町でみんなと一緒に死んでいた。父もその後入退院しながら七年目にバケツ一ぱいの血をはいて亡くなりました。 

私もその後上京しても体がついて行けない。でも生きて行かなくてはいけない、がんばらなくては自分に言い聞かせながら昭和医大にかけこみました。カンゾウがはれているとと言はれ通院しました。その頃は原爆のせいとはおもいませんでした。自分の病気だと思い一生懸命病魔とたたかいました。その当時は原爆手帳もいただいていませんでした。左の目がおもうように見えないので目ぐすりで・・・・・・・がんばりました。
「ABCC」原爆傷害調査委員会からの連絡で原爆手帳をいただきました。四四年度だと思います。
「椎間板ヘルニアと言はれました」東京駅のどまん中で救急車で病院え入院。済生会中央病院にて手術(四二年度)原爆手帳なし。

済生会中央病院、赤血球と白血球のバランスがとれないとキズがなかなかなおらないので二ヶ月半入院しました。原爆手帳はつかえませんでした。四二年度。

銀座の店ではげみました。妹(久美子)を広島から呼び(久美子)妹と二人でガンバリました。でも又病魔が近よっていたのです。ぱっくりと銀座で小学校の先生に出合いました。神奈川県に原爆被災者の会があるからとおしえていただきました。

聖マリアンナ大学病院(東横病院)、病院え行って見ました。病院の先生が「イカメラ」をとりましょうと言はれ取りましたが入院入院とおっかけられました。又入院しました。せっかくの店を妹一人にまかせ入院してやっと退院出来ると喜んでいると先生(中■)が入って来て、外科の先生(今仁先生)個室に呼ばれてガンのさいぼうがある、手術しなければ二年の命しかない、私一人なので妹さんを呼びなさいと言はれ、同意し、すぐに外科に廻されてしまいました。そして手術しました。入退院をくりかえしやっと体の方が落ちついたので目医者にかけこみました。目が見えなくなっては何も出来ない。

東京の病院は、共同病院え行きました。

共同病院
元木町眼科
川崎市立病院
広島では杉本眼科
いまだ眼科 いまだ整形外科
共同病院 藤崎クリニック
       内科整形皮フカ
       現在通院中

直爆の時、頭のキズが七八年もうんで今でも皆んな大ぜいの人のいる所、おさえるとイタイ。足のキズもツメがいたむ。いまだに切っても切ってもなおりません。

私達をさがしてあるいたため、義母もリンパがんで死亡。久美子(妹)もハイキシュで死亡。

原爆のおそろしさは体けんして見なくてはわかりません。やけただれた死体、デンシン柱にブラサがって死んでいる人、馬や人がかたまっている所、ハンカチでおさえてもそのじょうたいは、どんなにひょうげんしてもよいかわかりません。核兵器はいぜつに全世界に向ってさけばなくてはいけません。モルモットだけでは生きて行く私達原爆被爆者はさみしいです。

私の妹(久美子)も三年前に(ハイキシュ)で死亡しました。家族全員原爆被災者です。でもみんながんばっています。

父           直爆 死亡
義母          入市 死亡
妹     和子     直爆 死亡
妹      久美子  入市 死亡
      品子    入市
義妹   幸子    入市         通院中
      英二    胎内被バク   通院中
      礼子    直爆
弟     友美                 通院中

今は市立病院え通院中です(川崎)。
  

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