八月九日、比較的雲が多い朝。長崎市は、今日もまた夏の暑い日を思わせるような天気でした。午前十時過ぎ頃に空襲警報が発令され、当時まだ子供だった私も防空壕に避難しました。
まもなく警報が解除され、自宅に戻ったその時です。突然、家の上空にB29が飛んできたかと思うと、十一時二分、ピカリ!と目もくらむような青白い光と共に、どしんというものすごい音がして、家中の窓ガラスが粉々に割れてしまいました。私は、昼食の準備のため七りんに火を起こしてやかんをかけていたことを思い出し、台所へ行ってみると、やかんはどこかへ飛んでしまい、なくなっていました。「うちの近くに爆弾が落ちたのではないかしら」と思って、高台にある私の家から街を見下ろしてみると、ついさっきまではしっかり建っていた、あらゆる建物が全て倒されていました。あちこちから火の手があがり、町全体が火の海となっていました。
当時十五才だった従兄は、学徒動員で三菱兵器工場へ行って一週間目でした。わずか十五年の若い命は爆心地の灰と共に消え、幾度となく探しにでかけましたが、何一つ遺品もなく、爆心地の灰を拾って帰るほかありませんでした。
市内の新興善・勝山・伊良林小学校は救護所となり、けがや火傷のため水ぶくれで苦しむ人が次々と現れては亡くなっていきました。また、校庭や市内の空地では、沢山の死体が焼かれ、町には異様な臭いが漂い、まるで生地獄を見たような気がしました。
原爆とは、とても恐ろしいものなのです。広島に落とされた原爆は「ウラニウム」という放射線を出すものが含まれていて、これが爆発するように作られていたそうですが、長崎の時の原爆は「プラトニウム」が使われていて、破壊力や熱の力は広島に落とされたものより強かったそうです。長崎では瓦などの溶けている範囲が広島より、一・六倍も遠くまでおよんでいたそうです。
松山町上空四百九十メートルのところで爆発し、その時できた火の玉は、直径七十メートル、温度三十万度で、その熱い光や秒速六百五十メートルといわれる強い風で、地上のものを一瞬のうちに焼きつくし、破壊してしまったのです。
原爆資料室へ行かれましたら、溶けた六本のびんを見てみてください。これは、爆心地から四百メートル離れた商店で被爆した六本のびんがどろどろに溶けて上の方が一つにくっついたものです。また、他にも、ガラスの中に人間の手が入っているものがあります。これは、永久に原爆をのろい続ける人の手なのです。
原子爆弾は、たった一個で普通の爆弾の何千倍もの力を持っています。それは、上空にB29が二千機飛んできて、一度に爆弾を落とすのと同じ力だそうです。
さらに恐ろしいのは、原爆は空の上で爆発し、ものすごい熱を出して人々を焼きつくしてしまうということです。四十年たった現在も当時の被爆者はその時に受けた放射能のために苦しんでいます。
原爆は三たび許されるものではありません。戦争のない平和な世界を切実に祈ってやみません。
|