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きん子ばあちゃんの昔話 
大内 正子(おおうち まさこ) 
性別 女性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分)   執筆年 2013年 
被爆場所  
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

紙芝居「きん子ばあちゃんの昔話」のはじまり、はじまり!
今はもう昔になった一九四五年(昭和二十年)、きん子さんは二十一才でした。
日本は太平洋戦争の真っ最中で、文平さんは、兵隊になって戦地に行き、お母さんのひでさんと二人でくらしていました。家は、今の南区的場町にありました。


今日は、(昭和二十年)八月六日月曜日、朝からよく晴れていました。
錦子さんは、もう少ししたら、町内会の用事で出かける予定でした。
しかし、午前八時十五分、とつ然まばゆいばかりの閃光を浴び、目の前がまっ暗になりました。アメリカのB29爆撃機エノラゲイ号が、あの原子爆弾を落とし、爆裂したのでした。
その後しばらくは、まわりがまっ暗になり動けませんでした。


気がついた、きん子さんとひでさんは、二人で逃げようと思いました。家全体がかたむいていたのです。
荷物は出すことができないで、やっと手ぬぐい一本を持ちました。玄関に行って、くつ箱から靴を出そうとしましたが、これもかたむいていて、引き戸が開かないので、やっと手を入れて、左右不揃いの下駄を出してはいて、外に出ました。
すると、隣の事務所の屋根の上に、女の事務員さんがいて、「下じきになった人を助けて!」と言われました。一階がつぶれていたのです。きん子さんとひでさんの力では、残念ですが、どうしようもできませんでした。


きん子さんとひでさんは、荒神橋に向かいました。橋を渡って、広島駅の方に逃げるつもりでした。
顔全体、血まみれの人が、「その手ぬぐいで顔をふかせて下さい。」と言うのですが、これしかないので「一枚しかないんですよ。かしてあげたいんだけど、申し訳ありません。」と断るしかありませんでした。これは、後々まで、ずっと心に残って忘れることはなかったようです。
そして、荒神橋のたもとに行くと、知り合いの、小学三年の男の子、ひろちゃん(堀宏明)が、すくんでいるのに出会いました。柄物だと思ったシャツは、よく見ると血がついていたのでした。「ひろちゃん、一緒に逃げよう」と言うと、「おばあちゃんが来るのを待っとくよ」と答えるので、そのまま、橋を渡りました。後で聞くと、ひろちゃんとおばあちゃんは無事だったので、ほっとしました。


きん子さんとひでさんは、駅の方に行こうと思っていましたが、見ると、もう火が出て、広がっているようでした。
反対側の南の方へ、川土手を進みました。
しばらく行くと、兵隊さんに出会いました。「丹那国民学校が臨時の救護所になっとるから、早く行って、けがの手当てをしてもらいなさい。」と親切に教えてくれました。きん子さんは、逃げるのに一生けん命で気がつかなかったのですが、頭をけがしていて、血が流れ出ていたのでした。


やっと、丹那国民学校につきました。校舎は半分こわれていました。残ったところが、救護所になっていて、たくさんの人が、やけどや、けがで横になっていました。
きん子さんは、看護の方から、頭の手当てをしてもらい、大きなけがではなかったので、ほっとしました。ひでさんも、そばにいて、二人で無事だったことを喜びました。
その時、そばにいた兵隊の将校さんが、「今日の爆弾はおかしいのう。落ちた跡がないんじゃ。おかしいのう、おかしいじゃろう。」と、しきりに話しておられたのを、よく覚えています。
それから、近くの空き家に、入ることができました。きん子さんの家は、女二人だったので将校さん(高柳弘、淳子おばさんの夫)の宿舎をしていたので、助けてもらえたのでした。


その空き家にいる間に、八月十五日が来て、日本は負けて、戦争が終わりました。しばらくぶりに家に帰ってみると・・・・・すっかり焼けていました。防空壕に入れていた鍋の中の豆が、火事の熱で煮えていました。長い間、きん子さんとひでさんは、ぼう然と、立ちつくしていました。様子を見にきてくれた兵隊さんから聞いていたのですが、自分の目で見て、あらためて、爆弾のすごさとひどいありさまが、わかりました。
きん子さんの家は、爆心地から一・七キロメートルはなれた場所でした。(現在南区的場町)


広島の町は、やけ跡が少しずつ片づけられ、新しく建物がたち、戦争から戻った人もふえて町がもどってきました。
きん子さんとひでさんも、かんたんな小屋をつくってもらい、二人で生活をはじめました。
次の年、一九四六年(昭和二十一年)六月に、文平さんは帰って来ました。南太平洋のニューブリテン島(第一四一部隊(福山)第三隊)にいた文平さんは、運よく生きて戻れたのでした。
きん子さんとひでさんは、とても喜びました。


あれから何十年、きん子さんは、おばあさんになりました。
しかし、あの原爆の時のことは、今でも忘れることができません。
まだ、元気だった時、平和公園の慰霊碑の前で、ろうそくの灯をともして、大好きなコーラスで、「原爆許すまじ」を歌いました。
この歌のように、原爆を許さない、平和な幸せな世の中を、きん子さんは、ずっと願っています。

これで「きん子ばあちゃんの昔話」はおしまい、おしまい! 

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