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私の広島 
嬉野 瑛子(うれしの えいこ) 
性別 女性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2014年 
被爆場所 宇品国民学校 本校(広島市宇品町[現:広島市南区宇品御幸四丁目]) 
被爆時職業 児童 
被爆時所属 宇品国民学校5年生 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 
一九四五年六月十二日千田町の学校。私は電車で通学して居ました。今日も四十五名の学友と八時三十分に先生が教室においでに成るのを待って居ました。級長が起立、先生に禮。皆腰かけられ、沖津瑛子さんそのままでと。御目出度う今日は瑛子さんの誕生日です。

実は宇品より大きい御幸橋を通っての登校で何時爆弾が落ちて自宅に帰れなくなるやらと心配で七月より宇品の方に転校と成りました。

母との相談での事と思いますが。学友と別れる淋しさで心つまる思いを致し……。それから一ケ月一寸の八月六日。いつもの様に「行ってカエリマス」。登校時間七時十分、元気で家を出て宇品国民学校まで八百メートルの距離。五百メートルは南に向いて、五ツの防空壕が有り、それより西に電車路を横切り二百メートル行き、神田神社の前を通り五十メートルばかり行くと坂路丘の上は宇品乗合バスの路道になっています。そこを登り下り、両側に文房具屋、雑貨屋さんの間を下り校門を入るとすぐ左側に立派な御真影が有ります。先ず御真影に向かい直立不動最敬禮。どんなに急いで居てもその行動は逃れられない。やっと校舎二階の五年二組の教室へ。友達ともすぐになれ、ランドセルを机に下ろそうと思った時、空襲警報発令のサイレン。西の方六年生の教室のあたり、兵隊さんが同居しておられ賑やかな雰囲気。私はまた来た道路へ。御真影に最敬禮、門を出て坂道を登り神田神社前まで走った時、空襲警報解除のサイレン。又校門の方にひた走り、御真影の前で直立最敬礼。その時「ピカ」と私は写真屋でマグネシウムを焚く時に出るあの光。「バァー」という感じ。ドンも聞こえていない。黒いマントが覆いかぶさった様な風圧? 倒れた時、体の上に何かのしかかった様な兵隊さんが……カバーして下さった感じ。あたり眞っ暗。がたがたと下駄のハナオも切れ、飛び起き二、三人の友達らも御真影に一礼一目散に校門を出、両側のお店のガラス戸、ガタガタコッパミジン。そこを裸足で……下駄はしっかりにぎりしめ、ガラスの破片を踏み、家路に電車道を渡り、一番目の防空壕に。ところが、一見吃驚、ガラスの破片が目に突き刺さり、目玉がむき出ている人……又赤ちゃんを抱いたお母さん。髪は乱れ、オッパイをふくむ元気ない児にしきりに口へ入れ様とする親子。ほとんどガラスの破片での苦しみ。壕に入る気になれず家路に向かう途中、狂人の様になって友達の家族、お母さん方。狂瀾になった久子ちゃんのお母様。久子さんは六年生。ごめんなさい今日会ってないの……。又血だるまになった子供を抱きかかえ上半身、やはりガラスが胸にささり……何しろガラス破片での怪我人がほとんど。私は思った。オッパイを上げる時間であったのか、怪我人が上半身肌が目につき夥(おびただ)しい雰囲気だった。ひた走りに走り家に「タダイマカエリマシタ」。アー誰も居ない。玄関より赤いハナオの下駄を置き、お座敷の廊下のガラスがコッパミジンを見て離れの部屋に行ってびっくり。私より五才上の姉、昨日女学校より挺身隊でタバコ専売公社の勤労奉仕で今日月曜だけど休みで朝早くから掃除をしていた。折角のきれいにした部屋が? どうしたんだろうと、ぼんやりして居る。此レナァーニ、今まで何やってたのと、箒を持ちつつ立っている?お姉ちゃんしっかり……。

我屋の防空壕は、家財道具で一配。壕の上にはひょうたんカボチャが二ツ三ツブラサガリ、避難するには役立たず、自治会で皆が作った壕に行く。戦死した兄の長男タァーチャン(沖津忠和)四才は何処に行ったと捜し回る。姉よりしっかりし、近所の子供同士壕に入っていた。さて兄嫁は体の弱い次男一才を背負い、日傘をさして県病院へ行く途中爆風に。変を気付き引き返し家路に。白い日傘を差して居て良かったネ。風圧にあまり身体に影響無く、怪我も無く。さて母は? 田舎の娘が遊びに来て居て、今日は帰るとの事で何時もは広島駅の方に切符を買いに行くのですが、並んで求め、手に入るかわからない? 今日は宇品駅の方へと行かれ異変を感じたが難を逃れ帰って来たという。壕の中には、すでに中学のお兄さん達が、学徒動員で早朝より繁華街の家の間引、家倒しに現場で災難に遭う。この学生達は宇品の南の島、江田島に近い所の方達で仕事中に原爆に。大変な火傷。ほとんどの人達は火傷。逃げて帰る時、比治山で薬をと白いうどん粉の様な塗り薬を気休めの様に塗ってもらい、やっと神田二丁目の辺りまで来て精根尽きて倒れ、次々と壕に入れられ、蚊が泣く声、精一杯で水頂だい。水、水、水をチョウダイ。私の耳に入る。毎日、壕の当番の人が酒ビン一升ビン五本、水を入れ替え管理をして居るのできれいな水だけど……。三本は倒れて割れてたけど二本は? 大丈夫なのに、自治会の方から水を上げてはだめ。無情な小父さん達? 上げたら死んでしまうから。とても壕の中には居られない。外に出て空を? 見上げれば又何だろう、入道雲?でもない。ちぎって投げたらドッチボールの様な?固体に成る?どす黒い煙の様なでもない何。もくもくと大きくなる。自治会の方が又来て……見た事。この事すべて様子を写真に撮らない事と……難儀な事。誰も写真機など持ってる人は居ない。

よほど金持ちさんでないと、その当時は皆見た事の無い写真機です。でもその時の事(記録に残して居たら戦争の恐ろしさを一目で判るのに)……さて母と義姉が何か話している。さあエコちゃん今から(富二ちゃん)田舎の娘とお義姉さんタァーちゃん五人で田舎に行きなさいと云われ私は泣き叫ぶ。ウチヤー(自分の事)田舎にイカンケーネ、おかあちゃんとここにおるケンネと。ワンワン泣く。どこから出た声か母の声にびっくり。母を見上げる。“子供は生きるの”泣く声も出なくなり、義姉のモンペの腰紐をしっかり握り右手でタァーちゃんを引っ張り小走り、比治山の東側を通り、そのあたりから大変だ。原爆中心より一粁東で電車路より人々皆の姿が異状である。ブラウスを半分脱ぐ形で近寄って来られ、びっくり。背より肌が破れモンペの所まで下がってる。顔も眞黒に火傷か? 紙屋町の方から来る人々皆の姿がくずれている。真面に見られる事で無い。練兵場からはトラックに乗せられた兵隊さん。皆怪我をしながら座る事なく立って、すし詰めの三台四台と通り過ぎる子供の私も目を叛ける。義姉に付いてひた走りタァーちゃんも良く走り、途中水道管が破裂、噴水状態。水を見るとあのお兄さんどうなっているかなと自分も喉の渇きも我慢し走る。田舎道にさしかかった? ブドウ畠が目に付いた。食べたいな。お義姉さんからおこられた。よその物を取ってはだめ。でも姉さんも覗いている畠の中央に二十人他旺盛の声、日本の方達ではない様で義姉は又歩き出す。しばらくしたら雨が降り出した。他家の軒下をお借りして雨を凌ぐ。砥板を伝わって来る雨。だんだん強くなり、白いハンカチを濡らし顔を拭こうと思ったら眞黒に布が。何眞黒に成り? 何の水? おそろしい。何かとびっくり十五分ばかりで雨もやみ又歩き出す。しばらく歩いていたら田舎の小さな駅が有り、汽車が来るかも?と行って見ようと姉さんはえらいな。地獄極楽ほんとうにあるネ。おねえさんに愛想。白い割烹着を着た叔母さん達が「モロブタ」に眞白いオニギリを一ツズツ、タァーちゃん、雄二君(次男)まで下さり、塩もついて居ないけど涙の味が……。何十年あんな美味い物を食った事ない。忘れない。又地獄に戻り、汽車の中。女学校のお姉さんお顔が二倍に水ぶくれ、口はザクロ咥えた様。ザクロの実がぼろっとこぼれている様な歯がむき出ている。又別のお姉さんは髪を三ツ組にし、左右あるべきが一本に右側が抜け、はげて居る。顔は眞黒に火傷している。でも歩けるだけ気丈。一日がかりで田舎の親戚に着いた。けれども義姉の兄姉も広島より家族連れでたちまち十名以上になり皆怪我をしておられ、子供の私も遠慮がち。それでも十日ばかり居て今日十五日、叔父叔母義姉の兄弟近所にラジオ聞きに行くとか。昼頃出て行かれ、私は子守する。皆帰って来られ泣いておられるが、私に話して下さらない。十六日に宇品に帰り、久し振りに母姉と六人で丸い飯(ちゃぶ)台で食事をする。釜の中どこに米粒が入って居るか? がおがおのおかゆ蓋を開けのぞいて見たら、私の顔がうつる「かゆ」。田舎は遠慮しながらも白い御飯を炊く喜び。

でもお母さんと居られるだけでも有難う。なかなか戦争が終わったと聞いても成れないで十二時のお昼の知らせのサイレンに飛び出し防空壕に入ろうと。時間がかかりました。やっとなれたもののまだまだ色んな事が。或る日、まだ汗だくの日が続き、小窓を開けて食事を。そよ風の中に何か違った風が入って来て居る。母も姉も知らん顔、でもあまりの匂い? 臭う……姉さんから聞いてびっくり。畠の空き地にお坊様も線香も何もない。マッチも隣の……火を借りて自治会の方々が一斗缶の入った物をかけて人達を葬むって居る。それが毎日だ。誰が誰かわからない。もう私も後の事云う事つらい思いでこれで終わりに致します。
  

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