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敗戰前後 
尾﨑 慶雄(おざき よしお) 
性別 男性  被爆時年齢 30歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 南観音町総合グランド(広島市南観音町[現:広島市西区]) 
被爆時職業  
被爆時所属 大本営陸軍部船舶司令部船舶砲兵団 
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

徴兵検査では身体虚弱の為第三乙種で現役を免れ、其後召集もこないし、もう大丈夫だろうと思っていたら、昭和十八年十二月に三ヶ月間の教育召集令状がきて姫路の砲兵隊に入営した。昼間の野砲操作の訓練はどうやら熟したが、厳寒の早朝、厩舎の清掃では、馬が新兵と侮り、言ふことを聞かないので腹が立ち、夜間の班内では、下士官、古参兵の所謂鍛錬に悩まされて三ヶ月経過、通常は引続き長期の召集に切り替るのであるが、意外にも私のほか数名は翌十九年三月召集解除になった。之にてお役目ご免だらうと思い、延期していた結婚式を四月に挙げたところ、三ヶ月後の七月になって赤紙の臨時召集令状がきた。当時の戦況では生死予断を許さず、こう云うことになるのなら結婚は延ばすべきであったと思ったが後の祭りで、残される妻は可哀相なことになった。

七月十日。宇品の陸軍船舶司令部、通称、暁部隊の船舶砲兵第一連隊に入営した。暁部隊とは、船舶輸送に関する軍務を担当する陸軍の中の海軍のようなもので、船舶砲兵は輸送船に乗船し、仮設の高射砲や対潜水艦砲で船を防衛するのが任務で、私は対潜水艦砲掛りになった。この砲は野砲の砲身を利用して、三六〇度回転出来る台上に据え、甲板に設置する。先ず驚いたのは、砲身は明治三十年代の製造年号が刻まれた骨董品である事。実戦では終日終夜交替で見張番が海上を注視して、敵潜水艦の潜望鏡の出現を警戒するが全て肉眼看視で原始的。『潜望鏡発見、方向○○』との通報で砲手は待機室から飛びだして砲側につき、指揮官は方向、距離、潜水艦の速度等を目測して、砲身の方向を指示して発射すると云ふ原始的方法である。之で命中するのだらうかと心細い感じであった。

三ヶ月の訓練が終わり後は乗船命令を待つ事になる。対潜水艦砲手は、五・六人が一組で、必要に応じて就寝前の点呼後、人事係下士官が編成人名を呼びあげる。当時の日本軍は制空、制海権は既になく、瀬戸内海から外海に出ると船は忽ち撃沈されるので、乗船即戦死を意味していた。命を長らえる手段として、私共召集兵の内、資格者は年は取りすぎてはいるが幹部候補生を志願した。それは候補生訓練中の約一年間は乗船命令を免がれると聞かされた為である。十二月末に採用決定。通常は候補生の学校に入学するのだが、前が支えているので、取り敢へず、広島市南観音町の市営野球場の側に急造した土盛りの仮兵舎に入り、野球場スタンドに高射砲を据えて要地防空に就くことになった。広島市には米軍空襲は少く、時偶B29爆撃機隊が一万メートルの上空を飛来し、高射砲で迎撃したが、砲弾はせいぜい六・七千メートルしか届かず、情無い応戦であった。

昭和二十年八月六日。昨夜は空襲警報発令、二時頃迄砲側にいたので、毎朝六時の起床を遅らせて、八時に朝の点呼が兵舎前の広場で始まった。八時十数分。点呼が終る寸前、突然眼前で写真の強力なマグネシュームを焚かれたような閃光が走り、物凄い風圧で全身が地面に叩きつけられ、同時にドーンと云う爆音がして身体に地響を感じた。すわ空襲。爆弾、焼夷弾の直撃だ。第二弾・第三弾がくるぞ。反射的に両手で目耳を塞いだ左手に、ぬるっとした顔面の火傷の感触。静かになったので、恐る恐る顔をあげると兵隊達はみんな倒れて顔面は火傷で皮膚がめくれ上っていた。空には入道雲の様な恐ろしげな黒い雲が湧きおこり、上へ上へと昇ってゆく。後から判ったことだが原子爆弾のきのこ雲である。一同呆然自失の為体であった。現地は爆心点より約三キロメートル離れていた事と、点呼の為全員が軍服を着ていて、皮膚の露出が少なかったので、顔面の一部の火傷程度で助かり、兵舎は土盛りの掘立小屋の為倒壊を免れた。

火の手があがってきた街から、避難者が営内に倒れ込んできた。衣服はぼろぼろで、全身大火傷、皮膚の柔かい女、子供は特に無惨で、上げた手先から火傷で捲れた表皮が筒状にぶら下っている者もあり、正視に耐えぬ惨状である。私共兵隊は何とかしてあげたいと思ふものの、要地防空の臨時小分隊には、看護兵も薬もなく、手の施しようがない。近くの三菱重工の社宅の空屋が残っていたので、負傷者を収容し、粥を与へたり、大・小便の世話をしたりして、右往左往していた。真夏の盛りで惨酷なことだが、生きている負傷者の傷口に蛆がわいてくる。「兵隊さーん、痛い痛い、水が欲しい」と苦しげに叫ぶ。救護隊は来ない、只々、宥め励ますだけがせい一杯で、見殺しにする外なく、みているのが辛い。死体の数は増え続け、腐って悪臭を放つ。止むを得ず、一緒に火葬にふし、僧侶をしていた兵隊が読経し回向を勤めた。身元の判った仏の名を遺灰の側に掲示し、後から尋ねてきた遺族に遺灰の一部を持って帰ってもらった。広島の街全体が同様で、辺一帯に屍臭が漂い、火傷で身体が脹らみ、赤黒い肉塊としか言様がない死体を、山のように積み上げて火葬に付していた。

米国の一部では、原子爆弾の使用は、戦争の早期終結の為との解釈があるが、非戦闘員の女、子供のこの様な殺戮は許されない。戦争は絶対にしてはならない。戦争は人の善悪の判断を狂はせる。

三日後の八月九日。ソ連軍満州に侵入、米軍長崎に原子爆弾投下と攻撃が続き、暗澹たる気持であった。

六日後の八月十五日の朝。宇品の幹部候補生訓練学校に集合の命令があって学校に到着したところ、正午に天皇の終戦詔勅の放送があり、思はず隣の兵隊と、やっと終ったなと握手した。一同は其の儘原隊に引返した。原隊の隊長は士官学校出の若い中尉だが全く意気消沈して終日部屋に籠りきり、古参兵達は俄に低姿勢になった。二、三日すると暁部隊は終戦命令には従はない、戦い続けるとの噂がとびやきもきしたが、漸く九月七日に召集解除となり広島駅から満員の汽車に乗車して帰路につく事が出来た。

神戸に着いたものの、三十年間生れ育った留守宅は終戦二ヶ月前の六月に米軍の空襲で全焼し、家族は京都で旅館住居をしていた。家財一切が焼失し、中でも古い日記帳、写真、書物等の青・少年時代の思い出の品々を、悉皆失ったのが残念であった。

京都市内に家を買ひ求めて、旅館より移り、茶碗や箸から買ひ集めねばならない生活が始まった。

三十才からの私の新しい人生の厳しい出発である。
                                                                                                             (終り)

               尾崎慶雄略歴
大正四年神戸生。
旧大阪高校文科・京都帝国大学法学部卒。
日立造船、三井物産社員。陸軍軍曹。
【注 平成十六年九十才にて没】

               原爆投下経緯
昭和二十年四月            西日本拠点第二総軍司令部広島に設置
              八月       空襲減少
              八月二・三日 空襲なし
              八月五日午後 九・二〇    警戒警報発令
                              二七   空襲警報発令
                            一一・五五 同解除
                  六日午前 〇・二五    空襲警報発令
                           二・一〇    同解除
                           七・〇九    警戒警報発令
                           七・三一    同解除
                           八・十五    原爆投下

 

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