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被爆体験記 
長田 悦平治(おさだ えつへいじ) 
性別 男性  被爆時年齢 17歳 
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年 2006年 
被爆場所 広島市(曙町)[現:広島市東区] 
被爆時職業 一般就業者 
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

●被爆前の様子
私は、国民学校高等科を卒業後、体が弱く徴用にも勤労奉仕にも行きませんでした。父の弟が写真業を営んでいたので写真の修整を習いました。二、三年修行をして一人前となりました。当時のお客さんは軍人が多く、出征したら最後帰ってきませんから記念に写真を撮っていました。

私の家族は、土手町(比治山の北西)に住んでいましたが、毎日のようにB29が偵察に飛来していたので、父が「広島は軍都だから何かあるかもしれない。少し郊外へ引っ越そう」ということになりました。そして曙町での生活が始まりました。それは、原爆が投下される二か月前、六月頃だったと記憶しています。
 
●被爆当日の惨状
朝八時頃、両親と朝食をとっていました。姉は広島地方専売局に勤め、既に出掛けていました。食事中に裏の方で、B29が引き返してきて何か落とした様子で、二階に上がってみました。二階にたどりついた途端、パーッと光りました。ちょうどマグネシウム(写真撮影用のフラッシュ)を目の前でたかれた感じです。光を見た瞬間、足を踏み外し階段の一番上から下に転げ落ちました。そのときフワッと宙に浮いたような感覚で階下に落ちました。真空状態だったのでしょうか。ドーンという音も何も聞こえず、落ちたときは体に痛みを感じませんでした。

直撃弾を受けたのか、ほこりだらけで何も見えない、落ち着こうということで外に出ました。市内の方は、きのこ雲が広がっていたのです。家の裏では泣き声叫び声が聞こえました。

B29は何を落としたのだろうかと思いました。皆、空中爆弾だろうと言っていました。空中で爆発したからです。「原爆」という言葉を知りませんでした。

市内の方向は真っ暗です。三十分ぐらい経過してけが人がやって来ました。やけどしてプクッと膨れた人はまだ軽い方ですが、皮が垂れ下がっている人、背中が丸焼けになっている人、胸に木が刺さっている人もいました。みんな「水くれ、水くれ」と言います。水を飲ませてはいけないということで飲ませませんでした。

六日の夜は、家はめちゃくちゃですから、畑の中に蚊帳をつって過ごしました。姉はその日は戻ってきませんでした。

●翌日以降の様子
翌朝、九時半頃、家を出て市内へ向かいました。荒神橋から金屋町を進みました。その付近では、死体がミイラみたいに黒くコチコチになっていました。焼けていないベルトの部分などを手がかりに家族が捜索していました。

中国新聞や福屋百貨店など建物の下では、三、四人かたまってやけどしていない状態で死んでいました。上の階にいた者が階下へ降りて逃げ道を失いそのまま死んだのではないでしょうか。

西練兵場付近の防空壕の入り口では、馬が腹の膨れた状態で死んでいました。白神社から現在の平和大通りにかけては、ところどころ水道管から水が出ていました。水がある所には、学徒動員の生徒たち、子ども、女性が倒れていました。そんな死体の中を歩いて何も感じませんでした。何の気持ちも起きませんでした。

次に比治山方面へ鶴見橋を渡りました。比治山の防空壕へ行くとけが人がいっぱいでした。もう死んでいるのか、生きているのか分からない。たくさんいました。そして段原を抜けて帰りがけにB29が偵察に来ました。昼頃ではなかったかと思います。

その後、姉とは無事に再会できました。姉は六日当日、曙町の自宅も全滅だと思って帰ってこなかったみたいです。

●戦後の生活
終戦後、私たち家族は広島では写真で生活できないということで父の出身地、長崎の壱岐へ行くことになりました。

壱岐へ向かう際、台風の影響で列車が不通となり宮島口から下松まで歩いて行こうと覚悟を決めました。すると意外にも宮島口でヤミ船がありまして、その船に乗って下松へ行きました。船に乗って値段の交渉をするような感じです。何日もかかって下松から唐津そして壱岐へ向かいました。

壱岐では、家族四人で五年間、荒地を開墾し、農業をしました。また船を一艘買って漁師もしました。農家に手伝いに行けばお米や日用品をもらえました。その時分はお金を持っていても役に立ちません。野菜をもらうため私たちの衣料と交換しました。農家の人は喜びました。物々交換で生活していました。五年間の生活で壱岐の空気も良かったためか特に原爆の症状も出ませんでした。

昭和二十五年、広島へ戻りました。被爆後五年もたっているのに、宮島口付近から死臭がまだ残っていたのは驚きました。私は写真の修整しか知らなかったので、つまり撮影することを知りませんでした。写真機も無い状態でした。そこで福山、尾道、呉の写真屋へ修行に出ました。修行から戻ると福屋百貨店の写真部を経て三菱の工業写真の仕事を九年ばかりしておりました。

現在、私は孫にも恵まれ、特に原爆症への不安や被爆したことによる差別も無く過ごしております。原爆にあったことは、こちらから言わなければ分かりません。結婚の際、妻も私に被爆者であるかどうか聞きませんでした。別に隠すつもりはありませんでした。ただ、子どもたちに障害がなかったことは良かったと思っています。被爆二世のことはいろいろ話は出ていますから「何かあるんじゃあないか」と思って自分では気に掛けております。

●平和への思い
アメリカに対しては、原爆投下当時は何とも思いませんでしたが、核の保有については言いたいことがあります。アメリカは核を持っておきながら他国に核の保有を「やめろ、やめろ」と言っていますが、やめるわけない。あっちもこっちも核を作っていますが、例えば核爆弾を使用しないということになれば、永久保存しておくのでしょうか?これから五十年百年たったらどうなるのでしょう?どこへ捨てるのでしょうか?宇宙の果てに持って行って爆発させるか、地球上ではもう爆発させられません。それを考えるとむだなことだと思うのです。

私が追悼平和祈念館へ行き当時のことを話したとしても「これが何の役に立つのか」と思いますが、みんなが寄り添って話を書いたり聞いたりすれば、だんだんと輪がひろがってくると思います。今の日本人は核の恐ろしさを知らない。他国が核を持っているのであれば、日本も持てばいいではないかという人さえいます。日本は昔みたいに強くなったらいけません。強いものは、強くなると敵が現れてきます。するとどうしてもお互いの勢力の関係で戦争が起きます。昔の人は「負けるが勝ち」と言っていました。それがいいのではないかと思います。平和というのは、負けん気で対抗して再軍備したり核を持ったりしたら終わりです。地球がおわりになると思います。

日本人は日本一とか世界一にあこがれます。日本一になるにしても相手がいて日本一になります。弱肉強食という時代で、勝ったものがチヤホヤされる時代になっています。戦争でも同じです。相手が核を持っているからこちらも持とうという発想です。核保有国に対抗して、日本の国も強くならなければという気持ちを持っている人もいるかと思います。それではまた同じ事だと思うのです。

最後になりますが、強くなろうと思うなということです。弱ければ、他国に反抗する力が無いですから戦争も起きない。平和だということです。負けていいこともあるし、勝ちが必ず良いこととは限りません。「負けるが勝ち」が一番いいのではないかと思うのです。家庭でも同じことです。お互いが言い争っていたのでは、いつまでたっても家庭なんか円満にいきません。どちらかが引き下がれば円満にいきます。それと同じことです。平和というものは。
 

 

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