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長田 新と『原爆の子』 
長田 五郎(おさだ ごろう) 
性別 男性  被爆時年齢  
被爆地(被爆区分) 広島(直接被爆)  執筆年  
被爆場所 広島市平塚町[現:広島市中区] 
被爆時職業  
被爆時所属  
所蔵館 国立広島原爆死没者追悼平和祈念館 

「『原爆の子』が出版されたのは、一九五一年一〇月二日のことである。このころ、朝鮮の停戦会談は、全く行きづまり、局面の打開には、原爆使用以外に方法がないという主張が高まっていた。人類は、戦争か平和か、そのどちらかをえらばねばならない時期にさしかかっていた。そこへ本書が登場した。ヒロシマの少年少女一〇五人のアンソロジーは、第三次世界大戦の火消し役として、大きな役割を果たしたわけである」(広島大学教授今堀誠二・一九一四~一九九二)(共同通信社文化部編『昭和の名誉・教養のための百選』弘文堂、一九六四年)

一九四五年八月六日午前八時一五分、私の父、教育学者・長田新(当時広島文理科大学教授・五八歳)は、爆心地から一六〇〇メートル離れた京橋川沿いの平野町の自宅において、私とともに被爆した。父は、被爆と同時に投げ出されて、家屋の下敷きになり、全身五〇ヵ所にガラスの破片を受け、出血多量のため瀕死の重傷を負った。家の下敷きとなった父を救出した後、やっとたどりついた陸軍の被服廠において、父は陸軍軍医から死の宣告を受けた。しかし、その後父は、四ヵ月あまり死地をさまよったが奇跡的に生命をとりとめることができた。

父が、瀕死の病床に臥していた時、広島文理科大学教授会が開かれ、全会一致で長田新を広島高等師範学校長・広島文理科大学学長に選出した。すなわち、長田新が一九一五年七月、京都帝国大学哲学科を卒業してより敗戦にいたるまでの三〇年間、自由主義・民主主義・平和主義者として、一貫して戦争とファシズムに反対の態度を堅持してきたこと、加えて一九四一年二月よりスイス国立ペスタロッチー研究所員に在任していることなどにより、戦後の広島高等師範学校・文理科大学の看板と大黒柱になるのに最適任者であると教授会が判断したからである。

父は、一九四五年一二月より一九四九年六月にいたるまでの間、原爆放射能によって重度に汚染されている廃虚の中の学長室において、原子爆弾症と闘いながら執務し、広島学園の復興に没頭した。

広島文理科大学学長の任期を終えて学長の激務から解放された父は、原爆の悲劇を身をもって体験した広島の少年少女たちの手記を編集し、『原爆の子』と名付けて、一九五一年一〇月二日、核戦争による全人類の絶滅を阻止するため、岩波書店から刊行した。この書が出版された時は朝鮮戦争の真っ最中で、日本はまだ連合国軍の占領下にあり、厳しいプレス・コードの下にあって、原爆被爆の実態はほとんど知られていなかった。

父は、この書の刊行を契機として、余生を平和運動に捧げようと決意した矢先、「日本子どもを守る会」の結成の動きを知り、一九五二年五月一七日の日本子どもを守る会創立大会に欣然として広島より馳せ参じた。その際に初代会長に推され、一九六一年四月一八日、原爆症で急逝するまで東奔西走南船北馬、平和運動と子どもを守る運動に挺身した。
「世界の始めか世界の終りかといわれた、あの人類の歴史上における最も悲劇的な瞬間―一九四五年八月六日午前八時一五分―その時から早くも六年の歳月が流れて、またもや悲しい思い出の日がめぐってきた」という文章に始まる序文が書かれた日付、は一九五一年八月六日となっている。

この書には三九ページに上る長い序文の後に、小学校四年生の作文に始まり、旧制大学学生の作文に終わる一〇五編の作文が集録されている。これらは、当時広島に住んでいて、原爆の悲劇を身をもって体験し、あるいは父や母を失い、あるいは兄弟に死なれ、あるいは大切な先生や親しかった友達をなくした広島の少年少女たちが、当時どのような辛酸苦汁をなめたのか、また現在どのような感想を抱いているのかをつづった手記である。

この書は、世界で最初の原爆を体験した人間のみがなし得る「平和への訴え」であり、日本人自身の体験から生まれた平和思想の書であると同時に、もっとも国際性をもった人類普遍の思想の書でもある。また、広島の少年少女の訴えが全人類への「平和への訴え」となっている。この書が世界各国語に翻訳されたゆえんである。『原爆の子』の平和思想が戦後日本教育の精神的支柱となり、全世界の平和運動と平和教育運動の原動力となったのはいうまでもない。
『原爆の子』刊行の翌年の一九五二年八月六日には、関西エスペラント連盟(事務局・大阪)が『原爆の子』のエスペラント語の抄訳(本文七〇ページ)をつくった。それを、全国のエスペランティストの募金によって一〇〇〇部を印刷し、世界各国のエスペラント団体、文通相手に送付した。これが、『原爆の子』の声が海外に届いた最初の本であった。

父は、『原爆の子』を全世界の人々に読んでもらうため、まず英文による完全な翻訳本の刊行を計画し、一九六〇年一月にその翻訳草稿を完成した。しかし、その翌年一九六一年四月一八日に原爆症で急逝したため、その英文訳稿は陽の目をみることができなかった。しかし、この英文訳稿からノルウェー語版(ハルディス・モーレン・ヴェスアース訳、一九六一年)、デンマーク語版(キルステン・ブロストーム訳、一九六二)の二つの訳書が生まれた。

また、この英文訳稿から最初のドイツ語版(ハインツ・ヴィルマン解説、ドイツ民主共和国、一九六六年)が生まれたが、その後この訳本とまったく同じ内容の書物が一九八一年にドイツ連邦共和国フランクフルト・アム・マインのレーデルベルク社より刊行された。東ドイツと西ドイツが相呼応して、まったく同じ内容の本を刊行した点が注目される。

一九八〇年八月には、子どもを守る会の当時の副会長・福島要一(一九〇七~一九八九)の努力によって、長田新の訳した英文草稿を基礎とする英文の翻訳本(アサヒ・イーヴニング・ニュース社印刷)が、「英文『原爆の子』刊行委員会」の手によって東京において刊行された。その後この英語版は、一九八一年にテイラー・アンド・フランシス社(ロンドン)およびエルゲシュラーゲル・ガン・アンド・ハイン社(ケンブリッジ・マサチューセッツ)の二社から刊行された。

一九八二年には、西ドイツラジオ放送網日本代表のヘルマン・フィンケ氏の訳したドイツ語版が、オットー・マイヤー社(ドイツ連邦共和国ラーヴェンスブルク)から刊行された。

一九八四年には、日本子どもを守る会常任理事・山口勇子(一九一六~二〇〇〇)の努力によって、ヴァプ・タイペイル氏(当時国務相)の訳したフィンランド語版がラステンケスカス社(ヘルシンキ)から刊行された。

一九八五年には、ギリシャ語版がボウコウマニス社(アテネ)から刊行された。

一九八九年一〇月には、当時日本教育学会会長・日本子どもを守る会会長であった大田堯と広島大学元学長の沖原豊の努力によって、中国語の完全翻訳本が刊行された。これは、北京大学日本研究センター所長・彭家声教授、高等教育科学研究所・張光珮教授夫妻と彭浩(現中央大学助教授)の親子三人、五年の歳月をかけて心血を注いで完成したもので、北京大学出版社から刊行された。

一九九二年七月には、当時日本女子大学教授であった一番ヶ瀬康子の努力によって、中島香子・ヘレナ・エリクソン共訳のスウェーデン語版が、ストックホルムのスウェーデン生活協同組合から刊行された。

一九九六年には、沖原豊の努力によって韓国語の完全翻訳本が刊行された。梨花女子大学教授、福岡女学院大学教授、韓国教育学会会長を歴任した、韓国における代表的教育学者でペスタロッチー教育学の信奉者・朴俊熙(パクシュンヒ)(一九二四~一九九八)が、三年の歳月をかけて完成したものでソウルの学文社から刊行された。

二〇〇〇年九月には、早稲田大学教授白石昌也(ベトナム政治史専攻)の努力によって、ベトナム語の完全翻訳本がベトナム国家政治出版社(ハノイ)から刊行された。『原爆の子』の平和運動が、朝鮮戦争とベトナム戦争における核兵器の使用を阻止したという点からみても、誠に意義深いことである。

このように、一九五一年『原爆の子』が刊行されてから今日に至るまでの五〇年間、『原爆の子』に応える運動は燎原の火の如く全世界に広がり、世界の平和運動と平和教育運動は飛躍的に前進した。また、この書の刊行を契機として日本における原子爆禁止運動を代表する二人の指導者、森滝市郎広島大学名誉教授(原水爆禁止日本国民会議議長・一九〇一~一九九四)、山口勇子日本子どもを守る会常任理事(原水爆禁止日本協議会理事長)が誕生した。したがって、『原爆の子』は日本における原水爆禁止運動の原点の書物といってよい。またこの書は、日本子どもを守る会の五〇年にわたる運動の精神的支柱となってきた。

なお、日本国内の『原爆の子』の平和教育運動としては、次のものがあげられる。

一九五三年八月日本教員組合(当時の委員長岡三郎)は、「原爆の子友の会」会員全員の熱烈な要請に応えて、『原爆の子』を『ひろしま』(脚本八木保太郎・監督関川秀雄)という題名で映画化し、国内外で大きな反響を呼んだ。

一九六四年八月には、作家の山口勇子(広島子どもを守る会副会長・広島高等師範学校附属小卒)は、広島における原爆孤児救援運動の記録を『かあさんと呼べた―原爆の子らと歩いた十一年の記録―』(草土文化)という題名で編集し刊行した。一九六七年七月には、童画家のいわさきちひろ(一九一八~一九七四)が、『原爆の子』を描き、『わたしがちいさかったときに』(童心社)と題名して刊行した。この書の印税は、初版より今日に至るまで、すべて日本子どもを守る会の児童問題研究所の研究資金に充当されている。

一九七九年七月には、写真家・土田ヒロミは、写真集『ヒロシマ一九四五~一九七九』(朝日ソノラマ)を刊行した。この書は、『原爆の子』に作文を寄せた作者たちを、一九七六年より一九七九年にわたってルポルタージュしたものである。

広島生まれの世界注目の新進作曲家・細川俊夫は、新作『ヒロシマ・レクイエム』(一九八九年、フォンテック刊)において『原爆の子』の訴えを組曲として音楽化した。

一九九一年七月NHKは、岩波文庫版『原爆の子』をカセット・テープとしてNHKサービスセンターから刊行した。

朝日新聞の齊藤忠臣論税委員は、朝日新聞紙上に、一九九一年六月二七日より八月二日に至るまで三〇回にわたって『原爆の子』の四〇年の歩みを連載執筆した。

「花には太陽を子どもには平和を―子どもを守る運動の五〇年」新評論に掲載

 

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